メルセデス・ソーサのファミリー

DSC_4638今回の旅では、ついこの間タンゴダンスアジア選手権にチェッカーとしてブエノスアイレス市から派遣されてきたフアンホのおかげで、私がレコード会社時代に手がけた最大のアーティストの一人、メルセデス・ソーサのファミリーに会うことができた。フアンホはアルゼンチンに帰国後、選手権の準備に夜も徹して働いているが、日本で約束したとおり、メルセデス・ソーサのファミリーに会う段取りをとって一緒についてきてくれた。

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息子のファビアン・マトゥス

毎日曜日サンテルモの蚤の市が開かれるドレーゴ広場のすぐ近くの古い建物に、たまにフォルクローレのダンスを披露する広場がある。テレサ・パロディが文化大臣になってから、ここに「メルセデス・ソーサ文化財団」が置かれることになって、彼女の生前の輝かしい足跡を示す様々な遺物を集めて展示したり、企画を立案したりする事務所として機能している。そして、この財団を取り仕切っているのが息子のファビアン・マトゥス。メルセデスは、1957年にメンドーサで音楽家のオスカル・マトゥスと結婚して、このファビアンを産んでいる。オスカル・マトゥスはネグロ・マトゥスと呼び親しまれ、このメンドーサでアルマンド・テハーダ・ゴメス等と音楽家集団を結成して活動していた。

私が日本フォノグラムという会社に入ったのは70年代の初頭だったが、当時はフォルクローレなどというジャンルはどこからもほとんど見向きもされていなかった。私はその少し前にパコ・デ・ルシアを筆頭にフラメンコのLPを発売したのだが、最初はどれもセールスが伸びなかった。で、これはスペイン語文化が根付いていないせいがあるかも、と原盤倉庫の中からスペイン語表記のLPを集めてきて片っ端から聴き漁った。その結果、辿り着いたのがこのメルセデス・ソーサだった。最初に聴いたのは「アルヘンティーナの女たち」というアルバム。本当に奥深い、どっしりとした彼女の歌声には心底惚れ込んでしまった。しかし、企画会議に何度あげても誰も同調してくれない。ところが、当時の社長氏(ワンマンで有名だった)がフランスの音楽見本市MIDEMを訪ねた

孫。
孫アグスティン・マトゥス。

時、フランスのフィリップスが一押しでMIDEM会場の入口にPOP展示していたのが、その次に録音された彼女の「南アメリカのカンタータ」だった。それまで、人の企画を散々コケにしておきながらヨーロッパが認めるとなると風向きを簡単に変える、何とも恥ずかしい話だったが、その社長がそのアルバムを持って帰国すると社内の事情が一気に良い方向に向かった。私の企画をボロクソに行っていた課長氏は、その社長の腰巾着と揶揄されていた人だったが、「本田君ね、あのソーサのLPを聴いてたら涙が出ちゃってさ」と話かけてくる始末だ。まぁ、その後、フォルクローレ・シリーズはクリスティーナ&ウーゴというスター・デュエットが移籍してきたことも手伝って大きく日の目を浴びたのだが、その仕事を通してあのあまりにも程度の低すぎるサラリーマン稼業に実は嫌気がさしていた上に、社長氏とも喧嘩になって会社を辞めることになった。今となってはいい思い出だが。で、その後、メルセデス・ソーサが来日。電波新聞という左翼系の会社がソーサを呼ぶことになったので、中南米音楽社にいた私はロス・アンダリエゴスを呼び、一緒にプロモーションすることになった。その時に初めてソーサに出会った。予想通り、飾り気のない、まったくよどみのない素晴らしい人間だった。たまたま、その左翼系の新聞の同行人がつまらなかったせいで、彼

大統領府の「アルヘンティーナの女たち」に飾られたソーサの写真と。
大統領府の「アルヘンティーナの女たち」室に飾られたソーサの写真と。

女は暇さえあれば私たちのアンダリエゴス・チームにやって来ては冗談を言い合った。何回目かの来日の時、帝国ホテルに泊まっていた彼女から我が家に電話が。涙声だった。なんでもその日に開かれた記者会見で「政治の話ばかり。私は南アメリカの解放のために歌ってはいるけれど、政治家ではない。その前に歌手なのに」。よくわかる。日本の民度の低さというか、文化度はそんなものだった。で、「いいよ、そんなこと気にせずに、明日のコンサートでは何も考えずに最高の歌を聴かせればみんなわかってくれるから」と言いながら、彼女の落ち込みぶりに多少不安だったが、翌日の公演はみんなが感激し、大評判のものとなった….そして、ヨーロッパに亡命中の80年、キューバのバラデーロ音楽祭や、ブラジルのリオ(当時はブラジルも一応軍事政権だった)でシコ・ヴアルキが援助して開催されたコンサートでも偶然に会って再開を喜び合ったこと、ブエノスに民政がなって帰国した後の84年に、7月9日大通りの彼女のお宅に伺って「何に為に歌うのかわからなくなった…」みたいな話をされて心配した事等々….ファビアンは一つ一つ彼女の内面の変化の時期を説明してくれながら約2時間にわたって話すことができた。ファビアンとの話は、大いに盛りあがった。ファビアンはメルセデスとそっくり。優しさもすべて受け継いでいる。最後の未発表のアルバムをもうすぐ発売すること、映画がITUNEでほぼ20ヶ国語でスーパーをつけて公開していることなど、彼もかなり積極的に活動しているようだった。

そんなメルセデス・ソーサは2009年10月2日に多臓器不全でとうとう亡くなってしまった。しかし、今のクリスティーナ大統領は大統領府に設えた「アルヘンティーナの女たち」特別室に早速メルセデスノ写真を飾り、息子には文化財団を創らせて応援している。私は日本版の「アルヘンティーナの女たち」のジャケット用に日本で作成したイラストの原画を持っているが、今度、それを財団に贈呈したいと申し出たらすごく喜んでくれた。フアンホのおかげで、また一人大切な友人と知り合いになれた。