快適な帰国便

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日本で大分前から約束していた仕事があって、どうしても一度は戻らなくてはならず、25日にブエノスをとりあえず発つことに。また、10日頃から今度は世界選手権の取材で来ることになるのだが、今度は大事な客を連れてくることになりそう。ところが、先方のスケジュールが決まらないでいるうちに、日本はお盆の時期で飛行機の押さえが大変な状況になってきた。慌ててAAのサイトから予約しようとしたが、恐ろしい。間近になってくると、サイト上では便利なのが上がっていても、実際に予約するとなるとある時点から前に進まない。要するにソールド・アウトと言うこと。しかし、AAは大きな航空会社だから、最終的にマイアミまで行けば何とか繋がることは知ってるので、いろいろやったら15日発で何とか良いのが予約できた。成田〜ロス〜マイアミ〜エセイサという初めてのルート。アメリカ国内は無条件でアップグレードされるから、まぁホッとしたところ。
ブエノスの最終日はいつも通り会う人間が多くなって大変だった。ほぼ1時間おきにホテルのロビーで立て続けの打ち合わせだった。ところで、今初めて使ったNHタンゴというホテル、最終的にはネットもまぁまぁ使えたし、部屋のデザインも悪くない(バスタブがなく、シャワーだけなのが残念)が、IN,OUTの時間が南米にしてはしっかりしすぎていて、最終日は便が夜8時というのに正午にはチェックアウト。次は考えるところだ。(以上自分メモ)
787-dotcom-business-gallery-2787-dotcom-business-gallery-3さて、今回は会社の荷物もたっぷりあるし、体調も何となく万全ではないので、例の無料アップグレードを束事にした。ただ、アメリカンはUSA〜南米の機材は古いのが多かったから、もしその間の機材が良ければと言う条件を出していたら、なんとボーイング787ドリームライナーという最新機種だった。ほぼファーストクラスのような立派なビジネス
に、一番安いチケットで乗るのは多少悪い気もするがこれはルールだ。TVモニターの画面はひろいし、寝心地も最高。ダラスまでほとんど眠って行けた。

anさて、私はアメリカの空港ではダラスが一番乗り継ぎも良いし使い勝手がよい空港と思っているのだが、今回は日曜日のトランジットと言うことで、都合の悪い初体験があった。テキサス州法で御前10時までは酒類の販売が禁止されている上、10時からも1種類の食品を購入した場合にだけ1種の酒類を購入できることになっている。カリフォルニアではいつでも簡単に手に入るのに、アメリカでは州によってこういうところが多いとか。朝5時半には到着していたので、まずビールでもと思ったら、ドーンと看板が。ところが、ラウンジを出てレストランを見ていたらベトナム・サンドイッチ屋ではビールが並んでいてしかも問題なく売ってくれるんだと。さすが、テキサス。この辺がラテン的で好きです。まぁ、アメリカという国は以外に保守的な面がたくさんある。これもいわゆる昔にピューリタンが制定した制度で、現代にまで残っているブルーロー(青い法律)。特にこのテキサス州はいろいろと面白いことになってるらしい。

で、ダラスから成田までは同じビジネスでもあの2-3-2の普通の真横にはならない奴。でも、一番安いチケットで乗ってるんだから文句は言わないことに。

東京に着いたら何なのこの暑さは?次の旅に向けてこの間絶対に無理しないで行くことに決めました。

メルセデス・ソーサのファミリー

DSC_4638今回の旅では、ついこの間タンゴダンスアジア選手権にチェッカーとしてブエノスアイレス市から派遣されてきたフアンホのおかげで、私がレコード会社時代に手がけた最大のアーティストの一人、メルセデス・ソーサのファミリーに会うことができた。フアンホはアルゼンチンに帰国後、選手権の準備に夜も徹して働いているが、日本で約束したとおり、メルセデス・ソーサのファミリーに会う段取りをとって一緒についてきてくれた。

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息子のファビアン・マトゥス

毎日曜日サンテルモの蚤の市が開かれるドレーゴ広場のすぐ近くの古い建物に、たまにフォルクローレのダンスを披露する広場がある。テレサ・パロディが文化大臣になってから、ここに「メルセデス・ソーサ文化財団」が置かれることになって、彼女の生前の輝かしい足跡を示す様々な遺物を集めて展示したり、企画を立案したりする事務所として機能している。そして、この財団を取り仕切っているのが息子のファビアン・マトゥス。メルセデスは、1957年にメンドーサで音楽家のオスカル・マトゥスと結婚して、このファビアンを産んでいる。オスカル・マトゥスはネグロ・マトゥスと呼び親しまれ、このメンドーサでアルマンド・テハーダ・ゴメス等と音楽家集団を結成して活動していた。

私が日本フォノグラムという会社に入ったのは70年代の初頭だったが、当時はフォルクローレなどというジャンルはどこからもほとんど見向きもされていなかった。私はその少し前にパコ・デ・ルシアを筆頭にフラメンコのLPを発売したのだが、最初はどれもセールスが伸びなかった。で、これはスペイン語文化が根付いていないせいがあるかも、と原盤倉庫の中からスペイン語表記のLPを集めてきて片っ端から聴き漁った。その結果、辿り着いたのがこのメルセデス・ソーサだった。最初に聴いたのは「アルヘンティーナの女たち」というアルバム。本当に奥深い、どっしりとした彼女の歌声には心底惚れ込んでしまった。しかし、企画会議に何度あげても誰も同調してくれない。ところが、当時の社長氏(ワンマンで有名だった)がフランスの音楽見本市MIDEMを訪ねた

孫。
孫アグスティン・マトゥス。

時、フランスのフィリップスが一押しでMIDEM会場の入口にPOP展示していたのが、その次に録音された彼女の「南アメリカのカンタータ」だった。それまで、人の企画を散々コケにしておきながらヨーロッパが認めるとなると風向きを簡単に変える、何とも恥ずかしい話だったが、その社長がそのアルバムを持って帰国すると社内の事情が一気に良い方向に向かった。私の企画をボロクソに行っていた課長氏は、その社長の腰巾着と揶揄されていた人だったが、「本田君ね、あのソーサのLPを聴いてたら涙が出ちゃってさ」と話かけてくる始末だ。まぁ、その後、フォルクローレ・シリーズはクリスティーナ&ウーゴというスター・デュエットが移籍してきたことも手伝って大きく日の目を浴びたのだが、その仕事を通してあのあまりにも程度の低すぎるサラリーマン稼業に実は嫌気がさしていた上に、社長氏とも喧嘩になって会社を辞めることになった。今となってはいい思い出だが。で、その後、メルセデス・ソーサが来日。電波新聞という左翼系の会社がソーサを呼ぶことになったので、中南米音楽社にいた私はロス・アンダリエゴスを呼び、一緒にプロモーションすることになった。その時に初めてソーサに出会った。予想通り、飾り気のない、まったくよどみのない素晴らしい人間だった。たまたま、その左翼系の新聞の同行人がつまらなかったせいで、彼

大統領府の「アルヘンティーナの女たち」に飾られたソーサの写真と。
大統領府の「アルヘンティーナの女たち」室に飾られたソーサの写真と。

女は暇さえあれば私たちのアンダリエゴス・チームにやって来ては冗談を言い合った。何回目かの来日の時、帝国ホテルに泊まっていた彼女から我が家に電話が。涙声だった。なんでもその日に開かれた記者会見で「政治の話ばかり。私は南アメリカの解放のために歌ってはいるけれど、政治家ではない。その前に歌手なのに」。よくわかる。日本の民度の低さというか、文化度はそんなものだった。で、「いいよ、そんなこと気にせずに、明日のコンサートでは何も考えずに最高の歌を聴かせればみんなわかってくれるから」と言いながら、彼女の落ち込みぶりに多少不安だったが、翌日の公演はみんなが感激し、大評判のものとなった….そして、ヨーロッパに亡命中の80年、キューバのバラデーロ音楽祭や、ブラジルのリオ(当時はブラジルも一応軍事政権だった)でシコ・ヴアルキが援助して開催されたコンサートでも偶然に会って再開を喜び合ったこと、ブエノスに民政がなって帰国した後の84年に、7月9日大通りの彼女のお宅に伺って「何に為に歌うのかわからなくなった…」みたいな話をされて心配した事等々….ファビアンは一つ一つ彼女の内面の変化の時期を説明してくれながら約2時間にわたって話すことができた。ファビアンとの話は、大いに盛りあがった。ファビアンはメルセデスとそっくり。優しさもすべて受け継いでいる。最後の未発表のアルバムをもうすぐ発売すること、映画がITUNEでほぼ20ヶ国語でスーパーをつけて公開していることなど、彼もかなり積極的に活動しているようだった。

そんなメルセデス・ソーサは2009年10月2日に多臓器不全でとうとう亡くなってしまった。しかし、今のクリスティーナ大統領は大統領府に設えた「アルヘンティーナの女たち」特別室に早速メルセデスノ写真を飾り、息子には文化財団を創らせて応援している。私は日本版の「アルヘンティーナの女たち」のジャケット用に日本で作成したイラストの原画を持っているが、今度、それを財団に贈呈したいと申し出たらすごく喜んでくれた。フアンホのおかげで、また一人大切な友人と知り合いになれた。

 

 

大切なブエノスの友人たち。

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シルビア〔左)と長女。

ブエノスアイレスに来て、いつものことだがキリがないほど人と会うことが多い。これまでの人生で世界中たくさんの友人に助けられてここまでやってこられたのだからしょうがないのだが、ブエノスでも本当によい友人たちに恵まれている。今回は、タンゴダンス世界選手権のシルビア。この間も書いたかな?イバラ、テレルマンとどちらかというと今のクリスティーナ大統領に近い市長が続いた後、現在のマクリが市長になって、今後選手権はどうなるのか?と心配した後、3月から8月に開催時期がずれただけでより派手に続けると決定した直後、恐る恐る新スタッフと会議をしたときに出てきたのが、モッシ現総合プロデューサーとこのシルビアだった。モッシは元ギタリストで結構おとなしい感じの人、このシルビアはその下なのに、声のでかいうるさい女だった。ただ、アジア大会に関して、ダンス世界とは縁のない弊社がやっていて、非常に公平な運営をしているとの情報があったようで、基本的には悪くない雰囲気だったのだが、細部では新しく取り決めることが多々あった。悪いが、タンゴの世界では、お前たちより数倍深くつきあってきているから、俺たちは素人相手に我慢しながらやってるんだ、くらいの勢いでかなり声を張り上げてやり合った記憶がある。で、おおよそこちらの要求は飲ませた記憶がある。そんな関係だったが、最終的には最も親しい関係になった。旦那は大物アーティストの音響を手がける著名ミキサーで、選手権の決勝の卓は彼が握っている。悪いが、他国の素人プロデューサーとは訳が違う。すっかり息も統合したし、なにより、俺たちは偉そうにやってくるのではなく、働きに来てる、と言う姿を見せて、彼らもそれなりの評価をしてくれたよう。以来、家族ぐるみの付き合いをするようになった。今回のアジア選手権では、女房がシルビアに小さなお土産を渡したら、実は翌日から小バカンスに出るから、とお返しの土産をホテルまで見て届けてくれた。ラテンアメリカとの付き合いはこれをおろそかにする終わりだ。今後も良い付き合いを続けて行けそう。

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グスターボ・ロペス氏〔右)と。

次に、ブエノスアイレスに来ると、必ず会うのが前政府副官房長官のグスターボ・ロペス氏。イバラ前々市長時代の文化長官で、イバラ指揮の下で「タンゴ」の世界的価値について調査をし、「タンゴ」に地元で思う以上の世界的価値があることを示し、現在の「タンゴダンス世界選手権」を実現させた人だ。その後、彼とも家族ぐるみでおつきあいさせてもらっているが、本当に知的で魅力的な人だ。タンゴだけでなく、フランスのポップス始めヨーロッパ中の音楽やフラメンコもかなり詳しかったりする。ブエノスアイレスだけでなく、アルゼンチンの古い歴史ある建築に光を当てて、修復・保存運動を開始したその人でもある。基本的にはいわゆる「政治家」とは相容れない人柄だが、弁護士としての裁量も相当なもので、イバラ時代からその力を買われて政治の世界にも顔を出すようになった。タンゴダンス世界選手権が落ち着き始めた頃、あのクロマニオン事件がきっかけでイバラが退陣することになった時に、彼も一緒に辞めて、一時は日本のNHKみたいな存在のカナル(チャンネル)7の総裁に就任していた。ところが、そこで起きたのがあの新DIGITAL TV方式の問題。デジタル方式はアメリカ、日本、ヨーロッパの3つの方式があって、アルゼンチンはヨーロッパからの借金もあるからヨーロッパ方式に決まりかけていた。そこで、ブラジルのルーラ大統領が日本方式を決めて、南米中を同じ方式にしようとクリスティーナ大統領に持ちかけられていた。クリスティーナとしてはヨーロッパにも借りはあるが、ルーラ・ブラジルとも良好な関係を築き始めたばかり。そんな中、クリスティーナ大統領が直々にグスターボ・ロペスに声をかけ、副官房長官に就任となったのである。それからも、アルゼンチンのマスコミを独占するクラリン・グループに対し、メディアの新規律を作るいわゆるメディア法では強力な反対を押し切って自由なメディアの世界を作り上げることに成功。しかし、選挙を控える今年になって、クリスティーナから「市長」選挙への立候補を打診されて「勝つわけはないが、正式に政治家としてのスタートをきる」ために出馬、結果は予備選で敗退した。しかし、政治家として生きるためには出馬が肝心。大臣になるにも出馬が有利である。

今度の選挙の件はともかく、8月9日、そして10月25日の大統領選挙の行方を聞いてみたが、慎重だ。

「年初の大統領密約事件を覚えているだろう?あれはクリスティーナ政権にとっては大きすぎる事件だった。でもあの裁判も非常に正しく進行し、結局あの現場に他人はいなかったと言う結論に落ち着くようになった」よいう。もちろん、今回もこの弁護担当はロペス氏だ。だから、大統領候補マクリ側が今度の市長選で僅差でしか勝てなかったからクリスティーナの方が有利とする見方にも慎重にならざるをん得ない、何を仕掛けてくるか、何が起こるかわからないのが南米の選挙だから」と語ってくれた。私も裁判がらみでは、アルゼンチン作詞作曲家会長の事件が昔あって、汚職を追及しようとした人間が夜中にやはり不利場でピストル自殺するという事件を結構近くで見たことがある。歴史的にこの国の闇の世界は、結構深いものがある。どちらの何が正しいかは正直門外漢の私にはわからないし、少なくとも何か論評できる立場にはない。難しい、のだ。

しかし、このロペス元副長官、明らかに良い人だ。今でも英語教師の奥さんと、さほど立派な家を手に入れるわけでもなく、普通の市民としての生活を送りながら重要な仕事を淡々とこなしている。彼の頭の半分以上は文化であり、歴史だ。是非、今後も頑張って欲しい人間。今回も少しだけ以来ごとがあったが、忙しい間を縫ってかなり協力してくれるという。嬉しい仲間である。

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アカデミーの建物前に新設された前会長のオラシオ・フェレール像〔左)と新会長ガブリエル・ソリア氏。

そして、国立タンゴ・アカデミーのガブリエル・ソリア会長。昨年、ピアソラとの共作者で有名だった詩人オラシオ・フェレール会長が亡くなって、急に会長の立場を引き継ぐことになった若い会長だ。フェレール市が若い頃から彼を買っていたこともあって、なにしろタンゴに関しては天才的な記憶力と、人脈が凄い。人脈で言うと、フェレールしのおかげもさることながら、彼自身の企画力と行動力に寄るところも大きい。現実に今は亡くなってしまったタンゴの巨匠たちのインタビュIMG_1099ーもずいぶん溜めていて、弊誌ラティーナで毎月紹介させてもらっているが、どんなイベントであれ、ビデオカメラを担ぎながら、丹念に記録し続ける。しかも、例えばトロイロの執念だった昨年は今生きるタンゴのすべての巨匠を総動員して記念コンサートを一年間に及んでやり続けた。彼の熱意にほだされて、出演料は本飛渡誰も要求しなかったらしい。当然入場料も限りなく無料に近かった。しかも、老年のアーティストたちの録音には時間をかけて新録音をずいぶん録ってCDにもした。今回、真相なったアカデミーを訪ねたが、博物館もレッスン室もすべてが新装されていて感動した。コノアカデミー、今まではフェレールの印税でカバーしてきた収入はほとんど見込めない中で、実に良くやっていると評判である。

こういう友人たちに合うごとに、友人という存在が今まで自分のやってきた仕事のほとんどを占めてきたのだ、と痛感する。これだけは今後も変わることはない。

 

ガルデル賞ピアニスト、パブロ、夜はボンバ・デ・ティエンポ

たった半年なのに、随分久しぶりのブエノスアイレスに感じる。日本からたくさん仕事も持ってきたのだが、なかなか手につかない。選挙から一夜明けたこの日は、来年来日させるパブロ・エスティガリビアとの打ち合わせ。このパブロ、じつは2010年、ビクトル・ラバジェンの来日公演の時からずっと目をつけていて、いつかは彼のグループで日本公演をと目論んでいた。もう5年も経つ。毎年のように企画を出すのだが、ようやく正式に決定できたのだ。ビクトル・ラバジェンのツアーの時まだ20代の若者だったが、会場入りすると毎回一番先にステージに駆け込んではずっとピアノに夢中になっていた姿が目に焼き付いている。技術的には、当時で既にもの凄かったが、その上であれだけの練習量、しかもプグリエーセ、セステート・タンゴ、コロール・タンゴをわかり歩いてきた巨匠ラバジェンに、懇切丁寧にタンゴの各スタイルの特徴を学んでいる。あの前向きな姿勢に巨匠もかなり積極的に教え込んでいたのを思い出す。今になってみると、あの二人の光景をビデオにでも撮っておけば、と悔やまれるほどの真剣な現場だった。

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それから1年くらい経ってからだろうか、パブロからセステートを組んだ、と連絡があった。名前はラバジェン作の名曲に因んで「メリディオナル」とした、とのこと。おいおい、それはいくら何でも難しすぎる、と変更も要求したが、なかなか首を縦に振らない。それほどマエストロ、ラバジェンへの音楽傾倒してたということか。で、その後私がブエノスアイレスにいるうちに最初プグリエーセが運営していたカサ・デル・タンゴのホールで小コンサートを開いてくれた。彼を囲むタンゴ人たちもたくさん来ていた。あの時は確か10曲くらいの演奏だったと思うが、誰もが期待する現代風なサウンドかと思いきや、古典タンゴを彼風にアレンジするスタイルだ。その時に彼を後援する大事な友人とのインタビューで、「みんな現代風なアレンジを期待していると思うけれど、それはピアノ・ソロなり、トリオでこれからもそのまま表現していく。しかし私の演奏する現代は、必ずタンゴの伝統的な本質が横たわっている。セステートでは、その基本の部分を最も強調できるスタイル。だから、表に出てくる音は古典に近く聞こえても、あくまでも私の中にある一つのスタイルだ」と答えていたのが印象的だ。

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それからも、アルゼンチンに来る度に彼の演奏を聴いてきたが、聴く度に彼のピアノが更なる凄みを増していく。昨年は、トルクアート・タッソでバンドネオンのフリオ・パネの演奏を聴きに行った。実はパネよりも、そこにやってきている新しい歌手たちが聞きたくて行ったのだが、途中パネがマイクを手にして「ここでみんなに紹介したいアーティストがいる。もうみんなもその存在は知っているだろうけれど、現在のタンゴ界を代表する、さらにこれからのタンゴ界を牽引していく、まだ若者だが既に巨匠と呼んでいい、そんなピアニストをここで紹介したい」とやった。そして出てきたのがパブロだった。演奏したのはピアノ・ソロで「マラ・フンタ」。終了と同時にスタンディングの嵐。もの凄い演奏だった。アンコールに応えて「首の差で」これも凄まじかった。で、そんな出来事があった頃、実はパブロはあのピアノ・ソロのアルバムを録音中だった。数曲は彼が温めてきたもの、数曲は録音のために要求されて創ったものと教えてくれたがピアノ・ソロの素晴らしいアルバムだった。

そして、今年になってアルゼンチンで最も権威ある音楽賞カロルス・ガルデル賞が発表になり、このパブロのアルバムが選定された。順調な歩みだ。

そして、この日はこの彼との打ち合わせ。今絶好調の彼だけに打ち合わせではなかなか困難なところも生まれてきたが、全体的には日本公演に向けて意欲溢れる会談だった。

 

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夜、といっても20時からは文化シティKONEXで、ベロニカ女史の紹介でLA BOMBA DE TIEMPOというパーカッション集団の公演。アルゼンチンのパーカッション集団というとあまり聴かないが、なんでもあのルナパークを一杯にしてDVD収録もしていると言うから覗いてみることに。会DSC_4622場のKONEXは、あのイバラ前市長を退陣に追い込んだクロマニオン火災事故の現場からそう遠くないアバスト地区とエル・オンセ地区の間にある。建物と言うよりは建物と建物跡地を利用した音楽、演劇用のスペースで、結構収容人数は多そうだ。到着するとすでに人も、例の臭いも一杯。ベロニカにメンバーを紹介されながら楽屋へ。みんな陽気な気のよさそうな連中だ。さて、すぐにステージが始まったが、このKONEXという会場、ステージとオープンスペースのある屋内と屋外の大きなパティオが連続している。夏は屋外まで一杯になるそうだが、やはり寒い。内部に一杯にファンが詰められている感じ。このKONEXという会場、元々何かの工場だったのか、屋外スペースは別に屋内は柱が多すぎてなかなか使いにくい。でも、元気に始まった。2006年に結成されたそうだが、今までに共演してきたアーティストたちは凄い。Calle 13, Café Tacuba, Rubén Rada, Liliana Harrero, Paulinho Moska, Pedro Aznar, Kevin Johansen, Jorge Drexler, Hugo Fattoruso, Lisandro Aristimuño, Gustavo Cordera, Nano Stern, Totó La Momposina, Jarabe de Palo, Los Pericosなどなど。たしかにアルゼンチンには優秀なパーカッ_DSC1310ション奏者はいるのだが、こういったバトゥカーダ隊のような存在はなかった。だから、かなり便利に使われているのだろう。メンバーの中に何人かの指揮者がいて、彼らの示す70程度の合図でいろいろなリズムを編み出してゆくというのが特徴だと言うが、ブラジルのバトゥカーダ隊に比べるとすべての面で魅力に欠ける。指揮者もいかにもアルゼンチン的な振る舞いだし、楽器の種類も少ないからサウンドの多彩さにも欠ける。しかし、例えば日本にブラジルのあのバトゥカーダ隊が大編成でやってくることはないわけだから、その差を実感することは出来ないかもしれないが、ブラジルでパーカッション隊のもの凄いパフォーマンスを知っているものにはかなり物足りない。このサウンドはブラジルが相手と言うより、ウルグアイとのmixと言った方がよいかも。だから、ここでの評価はあくまでも個人的な見解。ただ、アルゼンチンの文化省とはかなり仲良くしているようで、中国、韓国へのツアーは決まりつつあるのだとか。で、いろいろ考えながら聴いていく内に、アルゼンチンでクンビアやスカ、ヒップホップをやるロック・グループLAS MANOS DE FILIPPIが登場。それまで、意外に盛り上がっていなかった会場が一気に熱気を帯びる。伴奏に回るとさすがに良い。まぁこのステージ、全体的に個人的には???の一夜だった。

ブエノスアイレス市長選挙

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Larreta

7月19日、日曜日。この日はブエノスアイレス市長の最終決戦投票日だ。マクリ現市長は実は2011年にも大統領選出馬を取りざたされながら市長選で再選されていた、今回は、何とか市政を無難にこなしてきたのでいよいよ大統領選に打って出る。で、後任に選んだのがunionPROの

オラシオ・ロドリゲス・ラレータ。予備選ではPROの中では人気の高かったミチェッティが、マクリの推すラレータに負けたため、彼の票がどこに流れるかが焦点。さて、PROの対抗馬はキルシュネル政権で経済大臣を務めた背が高くてハンサムで頭がよい、ECOと言う政党のマルティン・ルストー。クリスティーナの党、勝利前線がレカルデを立てていたので、得票率ではラレータが45.50%で1位、ルストー2位25.49%、レカルデ3位21.92%という結果だった。ブエノスに着いた少し前まではいくら何でもラレータが勝つだろうという話を多く聞いていた。

選挙結果詳報

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さて、この日は朝から店は開いていてもアルコールは無し、集会も無しで静かな選挙日だった。7時頃から開票速報が。ラレータが優勢ではあったが、開票率40%くらいではなんとルストーが1%近くの差にまで追い上げている。レカルデの票はもちろん、PROのミチェッティの票まで現実にルストーに流れたようだ。結局、開票が進むにつれ差は3%近くまで開いたものの、ラレータ51.6%、ルストー48.4%という結果になり、まぁ大方の予想通りラレータが勝利。ラレータの笑顔とは別に、マクリの表情には明らかに曇った様子が見て取れた。それはそうだろう、マクリの方は、一番の地元ブエノスアイレスでの結果がこんなに接戦では、8月9日に予備選、10月に本選挙がある大統領選ではまったく先が読めなくなっただろうからだ。逆に、ここまで追い上げたルストー陣営の方では大統領選でマクリと戦うシオリが登場して盛りあがっていた。

日曜日というのに、結構遅くまでTVに釘付けになっていたら、真夜中近くになってしまった。買ってあったビールも底をついて、ビール付き(20時過ぎに解禁)のレストランを探すがなかなか美味そうなところが空いてない。しょうがなくピザを頬張りながらビールを流し込むことにした。それにしても、この国の選挙は本当に最後まで予想が難しい。

友人たちとの出会いとセステート・マジョールの演奏

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さて、昨日はフアンホと歩いて、久しぶりのブエノスアイレスの雰囲気をたっぷり身体の中に取り込んだので、土曜日、こちらでは選挙の前日で忙しいはずなのに打ちあわせがたくさん入ってしまった。東京のアルゼンチン大使館のポリカストロ文化担当が、友人のプロデューサを連れてやってきた。パーカッション・グループ、フォルクローレのグループ、タンゴのグループなど、中国や韓国に結構アーティストを送り込んでいる女性のプロデューサー。中国や韓国に行くついでに日本に寄ってくれるのはありがたいが、なかなか日本無機なのにぶつかることはない。しかし、ポリカストロ氏、今までのどの文化担当よりも音楽を知っているので話は盛りあがった。

久しぶりなアーティストたちもたくさん訪れてくれた。中でも現在セステート・マジョールを実質的にリードしているオラシオ・ロモ。素晴らしいバンドネオン奏者だが、この前まではなかなか若かったが、リーダーとして働いているせいか大変に大人になった感。セステート・マジョールの他、自身のクアルテート、セステートも率いてい流他、市立タンゴ・オケでも活躍中。その他莫大な数の録音に参加しながら、南米、ヨーロッパと海外ツアーも多い。まさに偉大なマエストロとしての階段を上っている、そんな雰囲気を携えてきている。

そして、8月のタンゴ世界選手権でもし意の下ですべてを取り仕切っているシルビア女史。今回はたくさん話があったのだが、ちょうど私の滞在中に短い家族旅行に出るというので、挨拶に来てくれた。なにしろ翌日が市長選挙の決選投票日とあって、ここまでは世界選手権の準備もなかなか大変だったよう。選手権そのものはまだ良いが、その前のタンゴ・フェスティバルの方がいつも大変。選挙時期と相まって予算がころころ変わる。わかりやすく言うと次の予算の目途がついては次のアーティストを決める、という離れ業をモッシとやっていたが、これかrしばらくはモッシとフアンホで廻していかなければならないらしい。 そして、考えtみると、このしるびあかんかんかんがかんがえて考えて見ると、この世界選手権を始めたイバラ元市長が事故の責任をとって解任され、ホルヘ・テレルマンがその後を継いだまでは良かったが、2007年の市長選挙で現在のマウリシオ・マクリが市長になった時、イバラが肝入りで始め、人気が上がっていったこの世界選手権を取りやめるかも、と誰もが噂したが、結局まくりはロンバルディ元文化大臣を市の文化大臣に据え、より積極的に展開することになった。当然、スタッフは総入れ替えとなった。その時に知り合ったのがグスターボ・モッシとシルビア女史だった。この2人も当然選手権のことは何も知らずに担当することになったわけで、最初の頃は特にこの声の高いシルビア女史とは口角泡を飛ばして喧嘩したものだった。しかし、大会の運営や、何よりタンゴの知識はこちらの方が上、と言う頼りない(別な世界では実績があるのだが)責任者とも結局は話を重ねていくうちに仲良くなって、お互いに切磋琢磨するようになった。その後モッシ氏も、シルビア氏も日本を訪れていて、その時に更に親交が深くなったというわけ。シルビアの旦那さんは、屈指のシンガー&ソングライター、レオン・ヒエコはじめ大物アーティストの音響エンジニアで、世界選手権でも結晶体科の音響を取り仕切っているから、弊社も多くの事で世話になっている。海外で、少ない時間にこうして挨拶に来てくれると本当に嬉しいものだ。

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さて、夜は有名ライヴハウス「トルクアート・タッソ」にセステート・マジョールの演奏を聞きに。このたっそと言う店は200人も入ったら一杯ほどの作りもさほど立派ではない店だが、クリスティーナ大統領直系の人間が経営しているせいで、タンゴに限らず大物たちが出演するので有名である。マジョールは今月の土曜日を4回とも出演しているそうで、行ってみると確かに立錐の余地もないほど一杯だった。ロモが一番前の席を用意してくれたのDSC_4522で、そこで鑑賞。昔のアレンジをかなり変えてはいるが、リベルテーラ存命当時からのあの熱い、迫力ある演奏は完全に引き継がれている。現在のメンバーは昨年12月1日にバイオリンのアブラモビッチが急逝しため、当時のメンバーではバイオリンのエドゥアルド・ワルサックひとりだけとなってしまったが、オラシオ・ロモ(Bn)を中心に、セサル・ラゴ(vl)、フルビオ・ジラウド(p)、キケ・ゲーラ(b)、ルシアーノ・シアレッタ(Bn)となっている。

この日は、偶然リベルテーラ夫人や家族、現在マネージャーを務めている息子のフアン・リベルテーラたちも来ていて楽しい夜になった。リベルテーラが日本に来たのは1981年か82年、つまり「タンゴ・アルヘンティーノ」をパリでデビューさせる少し前だった。「タンゴ・アルヘンティーノには、メンバーこそ違え、お前とやった日本でのショーを随分取り入れたんだよ、と言って、ブエノスアイレスで会う度にいろいろなところに連れて行ってくれた。その話を履ベルテー等が家でもよく話していたそうで、今日お会いしたご家族もなんだか初めてあった気がしないくらいだった。マエストロ、リベルテーラに心から感謝。気がつくと、夜12時をとっくに廻っていた。ここの法律では選挙当日はアルコール禁止のはずだが、2時頃までみんなと楽しくやった。こちらはクリスティーナ大統領に感謝?

新たな友人とパレルモ散策

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到着した昨日は風邪でダウン。この日は多少調子が出てきたので、ついこの間日本のタンゴダンスアジア大会にブエノス市からやってきたフアンホとの打ち合わせ。日本で話していて、この男はなかなか面白そうと思った。何しろ彼はまだ40代というのに共通の知人が多い。ゴジェネチェ、ルベン・フアレス、メルセデス・ソーサ、テレサ・パロディ、グスターボ・サンタオラージャ…大物ばかり。実は前市長のイバラが1983年にタンゴダンス世界選手権をはじめ、次のマクリが市長になった時、実はスタッフにタンゴに詳しい人間がいなかった。総合プロデューサーのグスターボ・モッシは素晴らしいギタリストではあるが、タンゴだけに特別詳しいわけでもなかった。しかも、業界としてのタンゴの実態を知っている訳でもなかった。そこで、当時まだ30代後半だったこのフアンホが起用されたという。こちらでの我々の窓口には出てこなかったから、何度かは会っていたのに、個人的に話す機会はあまりなかった。が、サンタオラージャや天才・マルチ奏者ペドロ・アスナールのところではかなり中心スタッフとして働いてきている。今回は一つ重要な仕事を頼んでいるので、まずこのフアンホとの打ち合わせを優先。要件の方は」10分ほどで終了。来週火曜日あたりまでに決着しそうだ。

IMG_2098 で、どこかで飯を食おうというのだが、実はあまり腹も減っていない…ではパレルモに繰り出そうか、と言うことになった。パレルモ・ソーホー、若者たちのファッションの中心地だが、まだまだ大事なスペースが残っているので、そこでビールでも飲みながらと言うことになった。私も結構パレルモにも住んで詳しいつもりだったが、じつはそう知ってるわけではないことを思い知らされる。所謂高級レストランは誰でもいくから、タンゴを昔から要覧してきたクラブに行こうとなった。ブエノスアイレスには、各街毎にクラブがあって、元は会員制だが、地域の住民が誰でも楽しめる気楽な場所。アルゼンチン・タンゴは昔からこの手のクラブで開かれた「ミロンガ」の中で発展してきた。タンゴ・ダンサーたちがよく利用する「スンデルランド」もその一つだ。で、こちらはソーホーのど真ん中、セラーノ広場からそう遠くない、まさにセンターにある。まわりはファッIMG_2096ショナブルに変化しているが、確かにここだけは昔のブエノスアイレスそのものと言った雰囲気。中にはバーやレストラン、そして大きな集会場があって、今日はサッカーの練習をしていたが、この集会場で「ミロンガ」は育まれてきた。もちろん、今でもミロンガは開催されていて、何より、昔からこのソーホー地区(つい20年前までは普通のどちらかというと裁縫人たちが集まっていた地区だったが、不動産やたちが再開発して今では代ファッション街になった)に住んできた人間たちの息抜きの場である。名前は「クルブ・エロス」。この辺でこの

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古い作りの店には世界中の不動産屋がやってきて買おうとするらしい。このエロスもドイツの不動産屋が億の音をつけたが、オーナーは売らなかったそうだ。この心意気がブエノスアイレスの町並み全体を守っているのかもしれない。ここでビールを飲んで、ニョッキをつまみながらひとしきり放した後、今度は現在もミロンガやタンゴ・ショーを行っている「オレーハ・ネグラ」に立ち寄って一杯。ここでは今日も新しいファンのためのタンゴ講座が開かれていた。最後の一杯は、最近マIMG_2112ニアックに流行ってきているという詩の朗読を流行らせている「エル・ウニベルサル」と言う店へ。ブエノスのこの手の人間たちはこういった小さいが話題を集める店でいつも集う。あのボカの「オブレーロ」もアルフレッド・カセーロや後に文化大臣になったロンバルディも、総合プロデューサーのモッシたちが集まっては文化論を交わしながら発展させていったのである。さて、その「エル・ウニベルサル」だが、50人も客席がない小さな店だが、小さなステージと、空き地に屋根をつけたパティオがあるだけ。そこにバーがしつらえられていて、客はみなかなりファッショナブル。不安補はどこに行っても大の字のつく人気者だ。この日はギター2本をバックに市を朗読するレシタード大会。これが現在の新しいムーブメントなのだとか。パティオでは今日詠まれる詩の本の販売もある。結構楽しい雰囲気になってホテルに帰還。また新たなブエノスの顔も見る事ができた。フアンホとはこれからも長くつきあうことになりそうだ。

(写真はすべてiPhone)

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