北見の歴史に触れて

今、「ビバ・メヒコ2015」が各地で爆発的に受けながら日本全国巡演中だ。ステージをまとめた後、ドミニカ、ベネズエラと出張して帰国。実はその直後が稚内公演だった。私は道産子として北海道には人一倍愛着を持ち続けているが、残念ながら高校生までしか住んでいなかったし、私の育った頃は今ほど交通事情も良くなかったから、じつは北海道内をあまり旅行していなかった。この仕事をするようになって、全国に出掛けるようになってから北海道も良く知るようになった。しかし、中でも旭川より来たというのは言ったことがなかった。で、帰国翌日だったが稚内公演には行こうと思っていたのだが、機内で極端な風邪をひいてしまい断念していた。ところが、今回はスポンサーの方が我が故郷の北見でスタッフの慰労会をやってくれることになって、北見には行くことになった。いつもは北見に行っても級友たちと飲み歩くぐらいで街を見歩くことはしなかったのだが、今回は少しだけ北見の街を眺めたり、紅葉の季節でもあるので、レンタカーを借りてあの道東を少しだけ廻ってみることにした。

公演の方は北見市民会館という我々がいた頃にはなかった立派なホールで、すべて順調に進んでいたので、公園前近くを散策していると、「北見ハッカ記念館」というのが目に入った。じつは北見にいた高校生の頃まで、教科書には北見の名産品はハッカと言うことになっているのだが、一体ハッカがどこで生産されてどこで販売されているのかも知らなかった。で、少しだけ覗いてみようと言うことにしたのだが、これがなかなか興味深かかった。

まず「ハッカ」というのが日本語で、「薄荷」と書くのだそう。要するにハーブの一種、ミントの類なのだが、北見辺りで生産されていたのはニホンハッカで、この辺りでは抽出技術が世界最高クラスに進んでいて、当初から液体、続いて結晶にする技術が発明されて、荷物にすると極小になるので移動に楽になる、つまりコストが大幅に抑えられる。それで「薄荷」という説もあるのだとか。昭和の初期には世界薄荷流通市場の70%近くまでここの薄荷が輸出されるようになっていたのだという。開拓にはまず現在の北見市内から、開拓が進むにつれて山奥へとハッカ畑は場所を移し、つまり、ハッカ畑の移動によってこの地の開拓も進んでいった言われる。この地の発展とは切っても切れない関係にあったものだった。。ただ、私が生まれ育った頃になるとミント畑は仁頃といって、すでに北見市内からはほど遠いところだったのと、工場もそう大きくなかったらしいから我々も目にすることがなかったのだろう。

さて、このハッカの生産が激減することになったのはやはり戦争だった。太平洋戦争が進むと、薄荷の生産よりも人間様の胃袋を満たす作物の方が大事、と減反に減反が続き、先細ってしまった。戦後、夢よもう一度と復興の兆しも見えかかったが、すでに中国やブラジルなど新興国での生産に加えて、化学合成薄荷の登場でもう復興はならなかったのだそう。北見の工場も1983年までは細々と動いていたらしいが、ついに閉鎖になったという。現在の博物館は、当時の事務所をそのまま残したものだそうだ。ただ近年のミント・ブームで、作り方は違ってもこの地方の伝統を生かして小さな村ごとでの合成薄荷作りも盛んになってきているのだそう。頑張って欲しい。

さて、肝心のメキシコ公演、今回は全国どこへ行っても大人気であったが、この北見公演も大成功。翌日、一日休みをもらって、道東を巡ってみた。紅葉を求めたが、まだ少し早いらしく、しかし、友人たちの情報を元に結構回ってみた。まずは昔はほとんど人の寄りつかないチミケップ湖。ここはその昔大きな岩盤崩落事故によってできた堰止め湖。湖底には大きな藻が茂り、この湖に滑り落ちると二度と浮かび上がれない、とかいう悪い噂もあって、こどものころは悪阻Sるおそる眺めることしかできなかったのだが、現在は最初は西部がホテルを建設、今はそれを個人が買い取って経営しているとかで、本州や近隣諸国の客で結構賑わっているらしい。そんなはずはないのだが、携帯電話が繋がらない湖と言うことが売りならしい。屈斜路湖の投げ目の良いと言われる津別峠W周り、高校時代気が乗らないと学校をサボってよく行った美幌峠を廻ってホテルに戻った。当たり前だが、もう昔の道東とは比べものにならない発展ぶりだ。しかし、それでも、まだまだ深い楽しみを味わえる地域ではある。

メキシコのメキシコメキシ