エビータ没後60周年


 さて、撮影スタッフが帰る日曜日、以前から気にしてはいたけれど一度も行ったことのなかった「エビータ博物館」へ行ってみることにした。7月26日が彼女の命日で、しかも今年が没後60周年に当たる年(弊誌と同じ)だと、出発前に伊高さんから聞かされていたこともある。で、住所を調べると,私の住むアパートからすぐの所(Lafinur 2988)だ。

一時タンゴダンス世界選手権が行われていたRURAL催事場、イタリア広場、市立動物園、猫がたくさんいる市立植物園を横目に少し歩くと、すぐに何でもない、普通の建物に行き着く。ここがエビータ博物館。この建物はエバの夫、フアン・ドミンゴ・ペロンが最初に大統領になった1946年に、エバが設立した「エバ・ペロン財団」の建物だったが、没後50周年の2002年7月26日からエビータ博物館として使われている。すぐ横というか内部では繋がっているが、レストランも営業している。

中に入ると,まず最初にペロンとエバの肖像画が掛けられた豪華なエントリー・ホールが。そのホールの中心から右にエビータの美しい肖像が蝋燭で飾られた部屋に。肖像画の横には,彼女の著書「Razon de mi vida」からの一節が…。ここからさらに歩を進めると、大きな映像が流れてくる。エビータが1952年になくなった時の葬儀に何十万にもの国民が集った様子だ…。

エバ・ペロンは日本でもあのマドンナ、アンドレス・バンデラスが主演した映画「エビータ」で有名になったが、実はあの映画はこのアルゼンチンでは不評だった。あの映画がやってきた96年頃には街中に「マドンナ帰れ!!」の落書きが溢れたという。その美貌と性を売り物にして、様々な職業遍歴、男性遍歴を繰り返し、そこで知り合った男たちを踏み台にして出世…といったストーリーが、彼女を聖母とまで崇めるアルゼンチンの国民には、南米に根強い反米感情と相俟って許し難かったのだろう。

アルゼンチンは第二次世界大戦の終わる45年までは参戦することはなく親枢軸的中立国だったが、その間枢軸国にも連合国側にも食料を売って莫大な外貨を稼いでいた。しかし、アメリカの圧力に屈してドイツ、日本と断交したことがきっかけでラミレス大統領が失脚。軍人からのし上がったペロンは、1944年親しいエデルミロが大統領に就任するとすぐに陸軍大臣と副大統領のポストに就く。ここで実質的な実権をとることになった。と、かなり露骨に枢軸国寄りの政策をとったためにアメリカは得意の経済制裁を。しかし、当時は牛肉で稼いだ金があった。しかも、元々アメリカ嫌いだった国民感情も利して、ペロンの人気はうなぎ上りに上がっていった。

大戦終了直後の10月、アメリカの支援を受けたアバロスがクーデターを起こし、ペロンは一時拘束される。ここで活躍したのがエバだった。ペロン支持派の軍人や労働組合の後押しを受けて、五月広場に大挙して押しかけた国民の前でペロンの釈放を訴えた。このことはラジオでも流されて、クーデターは失敗に終わり、翌46年、ついにフアン・ドミンゴ・ペロンが始めて大統領の座に就くことになった。

ペロンは元々かなり枢軸国寄りだったし、特にアメリカ系やイギリス系の外資企業を国有化したり、民族産業を育成するなど、その思想は「左翼ファシズムと呼ばれることもあったが、エバの存在がそのすべてを和らげて、政治家としてのポイントを重ねていったのは確かだ。

博物館の2階にはその当時のエバのラジオ演説のシーンが映画で流されていたり、ファースト・レディになってからのエバの実績、つまり47年に実現した女性参政権や、「エバ・ペロン財団」を通して行った労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備などに尽力した姿が写真と共に展示されている。2階の一室に冷蔵庫やミシンが展示されているが、これは財団がおこなったミシン、毛布、食料などを配布した実績と、民族産業の育成に尽力したことを説明している。この頃までは第2次世界大戦中に大儲けした金があり余っていて、じつは戦後困窮する日本にもミシンや毛布などが送られたようだ。

エバはパンパの貧しい村に、農場主と雇われコックとの間に生まれた5人の私生児たちの一人だった。幼少時代から世の中の不公平は感じていただろうし、スターを夢見てブエノスに出てからも職業を転々としていた。しかし、ラジオの世界で活躍したことが彼女のキャリアを高めることに大きく貢献することになった。貧困層の唯一の楽しみはラジオだった時代だ。無学の貧困層から圧倒的な支持を受けたのにはこのラジオでの活躍が一番大きかったに違いない。

それにしても、ペロン大統領誕生に大きく貢献したとは言え、選挙で選ばれたわけでもない人間が、公費をばらまいて人気をとったなど陰口も多かった。しかし、ユダヤ人の大量殺害には異を唱えたり、ファシストたちの仲間とされそうだったペロンを「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ・ツアーで、イメージを回復したり、彼女の功績はやはりかなり大きかった。

1951年、ペロンによって副大統領に地位に就くはずだったが、子宮癌が発見されたために断念。1952年7月26日,その子宮癌が原因でエビータ死去。33才の若さだった。彼女の遺体は,現在はレコレッタ墓地のドゥアルデ家の墓に安置されているが、ペロンがイサベラと再婚したこともあって、イタリア、スペインと渡り、76年レコレッタ墓地のドァルテ家の墓に改葬され現在に至っている。

アルゼンチンの歴史に大きく名を残したエビータだが、夫の残したペロン党から故キルチネル、そしてその夫人の現クリスティーナ台津横領と、3代にわたってペロン党が実権を握っている。クリスティーナの選挙でもエビータの影がどれだけ貢献しているかわからない。クリスティーナ大統領は、そのせいもあってか大統領府内に、サロン・エビータも開設した…。

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