月刊ラティーナ休刊! webに移行!

(ラティーナ5月最終号掲載)
新型コロナが猛威を振るう中、雑誌「月刊ラティーナ」を休刊することにした。創刊68年の歴史ある音楽誌を休刊するのは、とてつもなく寂しい作業だ。いち早くコンピューター編集を取り入れて、編集作業は一段と早く便利になってきたし、世界の情報は一瞬にして全てを覗けるようになった。それでも、紙媒体としての雑誌の刊行から離れたくないのが編集部全員の気持ちだった。しかし、世の中にネット情報が溢れ、それを享受する人が圧倒的に増えてきた。それはすべての紙媒体に共通の悩みで、本屋に人は減ったし、新聞も、単行本も、紙媒体だけではなく、TVを始めメディアそのものに、変革が起きて久しい。世の中のシステムが変わってしまった。情熱を傾けて育ててくれた諸先輩、読者の皆さんには申し訳ないが、webというもっと今の世の中に合った方法で再出発することにした。全員がこの雑誌を愛してきたが、その情熱を少し形を変えて「日本では日の当たらない中南米や第三世界の文化の情報をもっと沢山の人に伝える」ためという同じ目標到達のための苦渋の決断だ。ご理解いただきたい。

 この間から、創刊時代の先輩たちに、日本に豊かな中南米の音楽芸術を伝えたいという強烈なライターや読者に支えられて、血の出るような努力でこの雑誌が生み出されたことを改めて聞いてきた。休刊にあたり、ここまでの弊誌の歩みの概要をまとめて記しておきたい。

 創刊した1952年頃と言うと、まだまだ戦後の臭いが充満する頃。進駐軍に言論統制されたラジオも50年には特殊法人日本放送協会(現NHK)が、同年に民間放送局としてラジオ東京(KRT現在のTBS) と中部日本放送(CBC)が開局、あくまでもアメリカの影響の元、音楽を普通に楽しむ雰囲気が芽生えてきた頃の話だ。翌51年には映画の東宝が設立、日本航空が開業し、戦前からあったレコード会社のビクターも日本音響として続けていたが、日本コロンビアも新たに設立した時代。加年松城至氏、蟹江丈夫氏、米山宏氏など熱血漢揃いの学生たちが集まって作ったのがこの中南米音楽だった。たくさんの当時の若者たちが夢を持って始めた雑誌だったが、よくある話の通り3号目で挫折しかかった。タンゴが主流だが、当時のライターたちの勢いたるや、今読んでも引き込まれるほどの情熱に溢れている。タンゴ・ファンだった中西義郎氏は、戦時中は海軍の特攻隊に所属して戦後を迎え、明治大学に入学したものの、結核を患い療養中だった。潰れそうになったこの雑誌に奮い立ち、病院の看護婦たちを手伝わせて、最初はガリ版印刷で4号目以降をつないだそう。退院後も目黒三田の4畳半の狭い一室で少しづつ形を整えてきた。

 翌53年、藤沢嵐子さんが夫君早川真平さんとブエノスアイレスに渡った。ペロン大統領が妻エビータの没後1周年の式典を開き、その場に藤沢さんが招待されて、まるで現地の発音そのままにタンゴを歌い、ラジオ放送で全国に流され一気にスターになった。その藤沢人気が日本にも伝わり、人気沸騰。雑誌もまだまだ同人誌の域を出なかったが、少しづつ雑誌としての体をなしてゆく。やがて、その後の藤沢さんの世界ツアーを一番先に報じたり、54年、アルゼンチンから最初にやってきたフアン・カナロや、61年に来日した「タンゴ王」フランシスコ・カナロの来日記事を伝えて注目され、、徐々に力をつけてきた。レコード産業にも少しづつ入り込んで、雑誌はかなり形を整えてきた。64年の藤沢、ティピカ東京の南米ツアーには、中西氏もマネージャー役で随行している。

 しかし、66年にやってきたビートルズ旋風で、それまで力を持っていたジャズ、シャンソン、タンゴ、カンツォーネ、メキシコ・ボレロの人気は一様に下降線を辿っていった。それでもタンゴは頑張った。70年に、鑑賞団体として大きく成長してきた民音と一緒になってタンゴ・シリーズを開始、最初はホセ・バッソ楽団だったが、なんと全国70回近い公演を成功させた。このシリーズの開始時はアルゼンチン本国でもビートルズ・ショックは同じで、大型タンゴ楽団の経営が難しい時代。小編成が主流の本国をさておいて、すべてティピカ編成の楽団ばかりを招聘。本国アルゼンチンでのタンゴの復興にも大きく寄与することになった。(昨年、このシリーズは50周年を迎えた。両国で大イベントも開催され、歴史的な事業となっている。)

 そのシリーズの少し前の69年、キューバ音楽など中南米の音楽に詳しい中村とうようさんが「ニューミュージックマガジン」を創刊した。とうようさんは京都大学で、先輩、永田文夫さんらと中年米研究会にいて、卒業後、東京の銀行に入社した後、音楽評論の世界に入ってきた。アメリカのフォーク、ロック、日本のロックやニュヨーク・ラテン(サルサ)等を紹介するようになる。本誌は、マガジンに比べるといわゆる「ラテン」は内容的に出遅れ感はあったが、それでも、クリスティーナとウーゴ、メルセデス・ソーサ、ロス・アンダリエゴスをはじめとするフォルクローレ・ブームから、パコ・デルシアのフラメンコ等を積極的に取り入れて、タンゴ以外の分野にも進出、少しずつ雑誌としての体裁を整えていった。ビートルズ来日以来、影が薄かった海外の他ジャンルが、70年の声と共に復活してきたのである。実はその頃の中南米音楽は編集部員兼ライターの高場将美氏と谷川越二氏がページのほとんどを埋めていた。その他、濱田次郎先生や、中村とうようさんが連載で投稿してくれていたが、両氏とも原稿料は受け取っていなかったらしい。表向きとは違って同人誌の域を出るのはまだその少し後だった。

 私が中南米音楽を知るようになったのはレコード会社勤務の時代。フォルクローレ、ブラジル音楽、タンゴの企画を練るときに一番相談したのが、高場さんだった。その少し前の71年頃、フラメンコの企画でお世話になった濱田先生から紹介された。良く飲み、一緒に企画を練った。74年、会社を辞めてスペインをふらついていた頃、高場さんから電話があってすぐ帰国し、中南米音楽に入社した。どんなテーマでも、音源を聞きながら意見を交わして何でも決めていった。その際の高場氏の知識の量と書くスピードは人間業ではなかった。今のようにパソコンも、中南米のアーティストの辞典など全くない時代だし、向こうから送られてくる新聞の記事だけを次々と頭に入れていったのだ。しかも、ツアー・コンもやらされるから来日アーティストたちから得た知識も膨大だった。高場さんの存在は誰にとっても偉大だった。はっきり言って、現在までの日本の中南米のムーブメントは、すべてにおいて高場さんの存在なくしては語れない。(17年、残念ながら病に倒れた。)

 80年に入った頃だったか、その高場さんがフリーとして独立した。いろいろな理由もあったのだが、仕方がなかった。しかし、残された私たちはかなり不安に。私は主に招聘業務で、渉外係。年に5回も6回も海外に送り出されていたから、そこで知ったこととフリーの高場さんからの助言で仕事を進めてきたようなものだった。

 79年頃、ブラジルから帰国してきたカメラマンの浅田英了氏と知り合い、恵比寿駅前の有名屋台「おゆき」で朝まで話した。ブラジル音楽ブームを誓い合った。この頃から、フォルクローレからブラジルに興味を移した佐藤由美が一気に力をつけてきたのも心強かった。

 浅田氏は、ヴァンクリーフなど世界から撮影依頼される名カメラマンだったが、年に1回開く仮装大会には800人もの人が集まったし、彼には個人的にブラジルは勿論、アルゼンチン、キューバまで一緒に付き合って貰った。81年に彼が青山に開いた「プラッサ・オンゼ」は、まるでブラジル音楽プロモーションの応接ルームの様。ブラジル・ブームに、彼の笑顔は不可欠だった。とは言え、このブームは、表向きとは違ってなかなか苦労の連続だった。79年から民音と始めたブラジル・シリーズはパウロ・モーラ、ガル・コスタ、アルシオーネ、クララ・ヌネス、エリゼッチ・カルドーゾ、ジルベルト・ジル…現地では途方もない有名アーティストばかりを日本に紹介した。が、都市部では評判が良かったものの、地方では実は苦戦していた。しかし、86年に招聘したジルベルト・ジルのコンサートは初日の川崎公演から、ステージを飛び出し、最前列の椅子の上に飛び乗り、煽り続ける彼の姿に、全員がぶっ飛んだ。FM東京で活躍中の青木誠氏はブラジル企画の最初から応援してくれていたが、その青木氏を案内役に使ったことで、彼がプロデュースする番組すべてで来日ブラジルのアーティストたちが放送されることになった。その放送の現場を取り仕切ってくれたのが現在J-WAVE会長の斎藤日出夫さん。また青木さんの後輩に中原仁氏がいて、ブラジル専門の音楽評論家として出発してもらった。ブラジル仲間が格段と増えたし、ジルとの付き合いから、ブラジルでの交渉も一気に楽になっていった。

 さて、80年はアルゼンチンの譜面の上にTANGOと初めて書かれてから100年目。これにいち早く気ずいた弊誌は「タンゴ100年キャンペーン」を開始。高場さんに「タンゴ100年史」の執筆を依頼、上・下二巻で発刊。同時に、71年から引退していた藤沢嵐子さんに復帰を促した。頑固者の嵐子さんはなかなか首を縦に振らなかったが、タンゴ100年のためなら、と受け入れてくれた。ここは中西社長の大活躍だった。大手新聞数社が見開き全段で記事を掲載し、東京厚生年金2回と、大阪フェス1回は即完売。嵐子さんの全盛時を知らない私は眼前に起こった藤沢人気に驚いた。81年には一緒にブエノスを訪れ、コンサートや録音を残した。ランコ・フジサワ…タクシーの運転手も必ず知っていた。

 やはり82年代初頭、同時に大手銀行の山田さんと知り合った。山田さんのおかげで「宝くじ」の余剰金を公的なイベントに、と言うシステムを使わせて頂いて、待望のピアソラを初招聘できることになった。どちらかというと静かめだった編集部の高橋敏が「ピアソラ」というと俄然盛り上がって、黒田恭一さん経由で武満徹さんに辿り着き、武満さんにはいろいろな意味で協力頂いた。従来のタンゴファンには評判の良くなかったピアソラだけに心配したが、予想を遙かに超えた成功を収めることができた。

 83年になって、タンゴもブラジルも慌ただしくなっていく中、周りから誌名の中南米音楽が固すぎるという声が上がった。そこで、「月刊ラティーナ」と改名することにした。取次も好感してくれて部数も大幅に増やすことになった。ただ、当初は中綴じ版で、それだけは気に入らなかったが、とりあえず成功。

 80年代の後半になって、ジルのマネージャー、ダニエルが主催したフェスティン・バイーアというサルヴァドールで行われた大イベントに驚いた。バイーアはジルやカエターノ、ガル、ベターニャなど蒼々たるアーティストの出身地。84年から何度か訪れていたが、レゲエ、アフロと言った世界のポピュラーなリズムが自然に花開いている土地柄だった。その地で行われた2万人を軽く超す大コンサートなどを含んだ、それは巨大なイベントだった。その旅の前に、ある仲間から別な提案があった。88年、外務省が「南米では今の進んだ日本を紹介してブームが起きているというのに、逆に日本では南米のことを報道されなさすぎる」という国安審議官(当時)の思いから、中南米フェスティバルと言う大イベントを、と言う企画だ。そのメイン音楽行事のコンサートを引き受けることになった。ブラジルから起きた話だったが、最初は今のタンゴが良い、と言う。選んだのは、ゴジェネチェ、マルコーニ楽団だった。昭和天皇の御崩御が心配されている中、高輪プリンスの飛天の間には満員の聴衆の中に上皇(当時皇太子)様ご夫妻もいらしてくれた。肋骨骨折してやってきたゴジェネチェには心配させられたが、さすが本番のステージでは凄い熱唱。本国では今も語り継がれる名公演となった。翌年は「ボサ・ノヴァ」だった。が、中身は任せると言うから、ここでも好きなことをやらせて貰った。メインはブラジル、ミナスの創作楽器集団ウアクチだった。ボサ・ノヴァとは関係ないが、新しい波には違いない(笑)。その他、往年のクアルテート・エン・シーにカルロス・リラ、そして新進のレイラ・ピニェイロ。無名だったウアクチの演奏は恐らく誰も期待していななかったが、どの公演でもスタンディング・オーベーションの嵐だった。90年代、他のイベンターもブラジルのアーティストを招聘するようになった。

 90年代に入るとラティーナの廻りに様々なことが起こった。私が自由に世界中を飛び回れたのも、中西社長がすべて許してくれていたからで、アルゼンチンには何度も一緒に出かけていた。92年の秋、私はキューバに滞在。その滞在先に日本から電話。「中西がアルゼンチンからの機中で亡くなった」というのだ。以前脳梗塞を患い、旅中も無理しないよう気遣っていたが、機中で再発して帰らぬ人となった。以降は夫人が社長を継いで、今まで通り進めることになった。

 そして翌年、浅田英了氏とアルゼンチンへの旅。招聘と制作を依頼された「タンゴ・ポル・ドス」の取材に出かけたが、急遽アメリカのオーランドでの取材となり、一緒に乗った機中で、今度は浅田氏が心筋梗塞で亡くなった。マイアミで現地から遺体を日本へ早急に運ぶための検死その他の作業を一気に手伝ってくれたラテン系の葬儀社のみんなの努力は今でも忘れることはない。一番心を許してきた友人の死。弊社の「ブラジル」はここでひとつの区切りとなった。2年続けて何かに取り憑かれたようだった。

 同じ頃、すでにピアソラ・ファンを獲得していた日本だったが、そのピアソラが92年パリで脳溢血を患った後、ブエノスアイレスで亡くなった。不思議な現象だが、世界的にもピアソラが本格的に有名になったのは、彼の死後だった。ジャンルを超えた著名アーティスト達が来日してピアソラ作品を演奏するようになり本格的に名を馳せることになった。

 94年、中西夫人と話し、私は事業のほとんどを雑誌と同じ株式会社ラティーナとして引き継ぎ、編集部全員と一緒に独立することした。大変な船出だったが、多くの友人の協力のおかげで、なんとか軌道に乗せることができた。

 それから暫くして、NHKが前述のフェスティン・バイーアを取材したいと言う。喜んで引き受けた。やはり巨大で盛大だった。そこに、2拍5日の日程で無理矢理やってきたのが「風になりたい」で一斉を風靡していたザ・ブームの宮沢和史氏。ここで、スイスで「アフロ・ブラジル」プロジェクトを主催しているプロデューサー氏と知り合い、やがてモントルー・ジャズ、チュービンゲン・フェスへのツアーとなる。モントルーでは一緒に車を乗り回しては、多くのことを話した。

2001年、アルゼンチンで「島唄」がアルフレッド・カセーロの歌でヒット・チャートのトップに。すぐにブエノスに出向き、カセーロの家でインタビュー。更に街中で市民が「島唄」を愛する姿等その騒動を録画。この時の録画はほぼ日本のすべてのTV局で放映され、「島唄」が再び注目されるように。02年の日韓ワールド・カップ年では国立競技場のパブリック・ビューイングのステージで、宮沢=カセーロが5万人の前で大合唱、紅白歌合戦にも出場するなど大活躍。弊誌でも宮沢氏の連載や、イベントなどで話題を共有してきた。

 08年は、日本人のブラジル移住100周年で、沢山のイベントが組まれたが、弊誌は宮沢=ジルの日本ツアーではジル側のサポート。宮沢氏の強い希望で、9月15日(祝)なんと横浜赤レンガパークに1.5万人をも集めたフリー・コンサートまで成功させた。ジルは、実は当時ブラジルの文化大臣。前年の夏に辞任したいと言っていたが、来日する08年まで…と依頼したら、信じられないことに、直前まで大臣でいてくれた!世紀をまたいで、宮沢氏とは世界中をまわりながら、おかげでブラジル音楽も新しいファンを獲得することに…。

 03年、ブエノスアイレス市の文化長官からタンゴダンス世界選手権のアジア部門を仕切ってくれないかと打診があった。タンゴには毎年世話になっているので、とりあえず引き受けた。意外だったのは、老人に支えられているジャンルと思っていたタンゴの、ダンスの方には新しい、若いファンが沢山いることに気づかされた。04年、第一回目のアジア選手権を開催。予想を遙かに超えた出場者と観衆が集まって、驚いた。このイベントでは太田亜紀、肥田哲也のふたりが立ち上げに大奮闘してくれた。最初の年のステージ部門2位の韓国のハビエル&ファイがブエノスアイレスの世界選手権で準優勝、翌年のアジア・チャンピオンは関西の亮&葉月が、世界大会でやはり準優勝という快挙だった。その後もヒロシ&キョウコ、チズコ&ディエゴ、アクセル&アゴスティーナの3組の世界チャンピオンを輩出している。アジア選手権も年々注目され、一昨年には海外からの出場者が半数以上になり、ますます注目されるようになっている。

 他にも、ベネズエラのソニーに勤務していた石橋純氏(現・東大教授)にベネズエラやコロンビア音楽についての素晴らしい連載から、一緒になって沢山のアーティストも招聘してきたし、弁護士の山口元一氏の「ブエノス・ディアス、ニッポン」は大好評で単行本にもしたが、今も法曹界で人気本になっている。また、故高野潤氏のアンデスを中心にした中南米の写真連載は評判を呼び、世界7ヶ国で発刊された。また、長く南米に滞在して日本の第一線で膨大な取材を続けてきたジャーナリスト伊高浩昭氏の「ラ米乱反射」も評判で単行本化、在外公館にもファンが多かった。CDも輸入販売等だけでなく、故フアンホ・ドミンゲスやカティア・ゲレイロ等と独自レーベルも開始し、驚異的なセールスも記録。また、ソニーの今井厚氏と組んで、世界中の私のプロデューサー仲間を巻き込んでワールド・ビレッジと言う動画サイトも6年間続けてきた。

 さて、94年に株式会社ラティーナになって以来、編集長は佐藤由美、船津良平、花田勝暁と続いた。佐藤由美は、当初はフォルクローレ、続いてブラジル、その他全般すべてにわたって頑張って貰った。しかも、手打ちのコンサートでは昼は編集、CDの輸入販売、夜は公演の宣伝、チケット販売にと本当に寝る間のないほど働いて貰った。船津はブラジルから帰国後プラッサ・オンゼでスカウトしたが、サンバ関係の記憶はまさに天才的、CDや楽器の販売から、ブラジル企画の立ち上げ、ツアー・マネージャーに至るまですべてを動かしてもらった。その船津がネットから探し出してきたのが現在の編集長の花田だ。まだ学生だった花田は、基本的に家でも会社でも寝る場所を選ばない男で、その後一時大学院に進学したがそのまま戻って現職という熱血漢だが、3人とも力の限り良く頑張ってくれた。弊社で編集長をやった3人は、例えば3つのツアーが重なると、一人で雑誌を作り上げるしかない。その苦労を全部一手に引き受ける逸材ばかり。彼らのおかげで現在まで続いたと言っても良い。花田にはこれからもwev版で編集長を引き受けて貰うが、とりあえず雑誌の休刊に当たってこの3人にお礼を言いたい。また、今回は別項で、弊社のために尽くしてくれた沢山の仲間達が思い出を書いてくれているが、中でも、中南米音楽時代から世話になった相沢紀子、ルシア塩満、ラティーナになってからも斎藤賢三、筒井由美子、深作英世、伊藤亜矢、高橋敏、平井雅、長峰修、丸山由紀、伊藤亜矢、原田千佳、太田亜紀、岸由紀子、肥田哲也、宇佐美里圭、細川一臣、野副 修、田代明子、滝澤奏子、本田大典、松本未生、伊吹昭彦、鈴木多依子、小林小百合、坂本 悠、宮本剛志、山口なつみ、宮ヶ迫理沙…他にも、長年表紙を担当してくれたブラジルの偉大なるエリファス・アンドレアート氏、この会社の経理を一手に引き受けてきている本田美登利、それから、発刊の頃編集長を務められ、現在はチャカリータ墓地に眠る故加年松城至氏にも感謝したい。

 また、70年から50年間という世界的にも例のない程長い間続いているタンゴ・シリーズを始め、世界中からアーティストの招聘・制作を任せてくれている民主音楽協会には、この雑誌にとっても一番多くの話題を提供頂いたし、多くを学ばせて頂いた。特に深く感謝したい。

 創刊当時から弊誌に情熱を傾けて頂いたすべてのライター、読者の皆さん、関係者の方々に、休刊に至ったことを詫びると共に、もうすぐ予定しているwev版のメディアの方でも引き続き応援して頂けるよう、よろしくお願いしたい。

 wev版の方は、編集長の花田を中心に準備中だが、大分前からweb版を勧めてくれた宮沢和史氏に統括編集長をお願いし、より幅広い話題を紹介できる様にしたいと思っている。私もあと少し力を尽くすがこれからは花田、宇戸、東を中心に新しい体制で向かう。が、手が足りない。ラテン諸国の紹介に情熱を傾けたい方ならいつでも大歓迎する!

雑誌・月刊ラティーナの創刊記念日5月5日・記