岡山の仲間。シーグレル公演。


この歳になると、廻りの友人たちの生活にも大分変化が出てくる。引退して悠々自適の生活をする友人もいれば、私のように辞めたくても辞められずに相変わらず汲々の生活を続けているものもいる。まぁ、一番羨ましい?のは会社の中でどんどん出世している友人たち。その昔、ニューヨークで会って、二人で安酒を飲みながら日本の会社からは制作費のカットばかり言われることに不満を言い合った友人はあるレコード会社の社長に収まっているし、やはり大昔、FM東京で活躍していた友人はこのあいだまでJ-Waveの常務だったのが、なんと今度はついに社長の座に就くことになったという。彼は元々レコード会社時代に友人だった早稲田ハイソ出身の親友のひとつ後輩。このご時世、社長職も楽ではないにしても、昔一緒に苦労した仲間が要職につくのは嬉しいもの。

そんな一人に、岡山放送のTさんがいる。彼は確か昨年から同局の常務に就いている。たくさんの先輩たちを飛び越しての就任だったそうだ。そのTさんからは80年代にブラジルからサンバ・グループを招聘する仕事を引き受けて、一緒にブラジルまで行って苦労した事がある。あの瀬戸大橋が竣工した年の前後だったから88年とか89年のことだった。本州側の岡山県倉敷市にある鷲羽山ハイランドという遊園地があって、そこは現在も「ブラジリアンパーク・鷲羽山ハイランド」という名で頑張っているのだが,当時のキャッチ・コピーは「瀬戸大橋の見える遊園地」で、そこに明るいブラジルのサンバ・グループを入れるという話だった。この遊園地それまでもサンパウロの業者に依頼して何年かは招聘してきたのだが、当時Tさんはこの遊園地の営業担当。いきさつはわからないが、急に岡山放送が招聘を引き受けることになって、弊社に白羽の矢が立ったというわけだ。当時の弊社はジルベルト・ジル、ガル・コスタ、エリゼッチ・カルドーゾ、アルシオーネ、クララ・ヌネスといった大物ばかりを招聘していた頃で、いわゆるサンバのダンサーたちの仕事は引き受けたことがないし、はっきり言って色々難しいことも耳にしていたから、あまり乗り気ではなかった。しかも、話が急でアーティストの選定から招聘まで殆ど暇がない。それを引き受けたのはひとえにTさんの熱意と依頼主が岡山放送だったからだった。

今考えると本当に大変な仕事だった。すぐにブラジル・リオに飛んで、実は上記のアーティストの一人のマネージャー氏に相談すると一肌脱いでくれるというので行ってみると,オーディションの日にちすらなかなか決まらない。当時のブラジルではいわゆるサンバ・ダンサーたちの社会的レベルはと言ったら相当低いもので、あまりその手の仕事をしていることは言いたくない,そんなタイプのものだった。それでも、なんとか何度かのオーディションを実現させてアーティストの選出を終了。今度は招聘にかかる書類の準備だ。これが大変。今までの仕事とはまったく勝手が違う。なにしろ、基本的に査証用の書類など彼らには関係ない世界だったからだ。日本ではすでに宣伝も開始されてTさんが帰国する日までに書類が揃わないと初日が開かない、そんな状況だったのに、書類が届かない。その時になってTさんは始めて私に見せてくれたが、この仕事がかなり難しいことをわかっていたから,懐にはいつも辞表を入れて歩いていた。で、当時の友人でブラジル航空のアジア担当部長であったヴァレーラ千代子さんという方の家で受け取って、そこから空港に書類を届けるはずだったが、お宅に届いたのは飛行機が出発する1時間前。空港までは優に1時間はかかる。Tさん、もうすっかり諦めきって「本田さん、もういいですよ。これで私は別の人生を探すだけですから」と妙に明るい。我々に心配かけたくなかった一心だったと思う。しかし、その苦境を救ってくれたのが千代子さんだった。「本田さん、わからないわよ、ブラジルの飛行機は時間通りになんか動かないから…」といいながら空港の職員に電話している。とにかくすぐ空港に向かえという。それで書類を持って空港へ行ったが、何と間に合ったのである。千代子さん、何も言わなかったが、絶対に秘密の指示をしてくれたのだと思う。絶対にそうとしか考えられない。その後、何度も千代子さんとはブラジルでもあったが、その件になると話をはぐらかされるばかり。もの凄いことが起きる国と感動したものだった。

Tさんは,その後も岡山放送でアルゼンチンをテーマにした番組を立ち上げたり、なにかと一緒に仕事を続けてきたが、その後東京支社長になったり、若くから頑張ってきていた。そして、昨年常務の座に就いた。そのTさんから電話があって「特になんと言うことではないけれど、本田さん的な案件があるので」と岡山に来ることを勧められた。相変わらず、まっすぐな迫力ある人だ。今回はスペインの案件と、アルゼンチンの興行の件、ブラジルの件などを彼の後輩と打ち合わせて来た。地方の局ではあるが、T門下の迫力も満点、楽しい雰囲気での仕事ばかりと見た。夜はTさんと後輩諸君と凄く気の利いた居酒屋で、そんな思い出話に花を咲かせた。今後は両社の後輩同士で面白い仕事が作れると良いと思う。(写真は岡山の有名な海鮮居酒屋「磯」)

さて、岡山での楽しい一夜を終えて、今度はトンボ返りで東京へ。4日の夜はアストル・ピアソラの命日(92年)。ピアソラ没後20周年記念日に、東京オペラ・シティ・タケミツメモリアルでパブロ・シーグレルの「ブエノスアイレスの四季」のコンサートがある。ピアソラの初来日の時に本当に助けて頂いた故武満徹さんの名が冠されたコンサート・ホールで、ピアソラの命日に、ピアソラの思いを一番受け継いで世界で闘っているシーグレルが演奏するわけだ。弊社も本当は春にシーグレルのコンサートを企画していたが、スケジュールの都合とこの日のコンサートのために11月に延期していた。

さて、タケミツメモリアルは素晴らしいホールだ。しかし、特別編成オーケストラにバンドネオン、ベース1台、パーカッションが加わっての演奏は音響敵にどうこなすのか興味深く見ていたが、やはりぴあの周辺、バンドネオン周辺にオケ全体にも薄くPAを加えるという編成だった。クラシック・ホールでのPAの使用はなかなか難しい。この日も最初の「アスファルト」あたりはピアノも籠もり気味な上、バンドネオンのバリエーション辺りが聞こえない。まぁ、最終的にはシーグレルだ。問題なく素晴らしいコンサートになった。

シーグレル:《ブエノスアイレス組曲》より「アスファルト」
ピアソラ:天使の序章
ピアソラ:イマヘネス676
コビアン:郷愁
ピアソラ:リベルタンゴ
ピアソラ:忘却
ピアソラ:《ブエノスアイレスのマリア》より「フーガと神秘」
[第2部]
ピアソラ:《ブエノスアイレスの四季》(P.シーグレル版 日本初演)

会場も最初はやや硬さがあったものの、第一部のピアノ、バンドネオン、ドラムで演奏した「リベルタンゴ」ですでに会場の盛り上がりはピーク。バンドネオンの重要な左手の音が低すぎるのは最後まで気になったが、4人でやるこの曲ではバリエーションも聞こえたから、拍手が止まなかったのは当然だ。それにしても、以前渋谷のクラシックスの時もバンドネオンの音が低く抑えられていて、PAにはかなり不満だったのだが、このPAさん、同じではないのかも知れないが、やはり仕事をする前に彼のやる音楽を理解してから仕事をして欲しいものだ。管よりもバンドネオンの左のメロの音量が低いなんてピアソラがいたら怒り出すに違いないから。
続くオブリビオンも、ピアソラの美の骨頂がシーグレルの美しいアレンジで冴え渡る。で、一部最後の「フーガと神秘」。申し分ない。

さて、第2部は「ブエノスアイレスの四季」ヴィヴァルディを意識した編曲と言うが、やはりシーグレル魂があちこちに現れて、聞いていて面白い。盛り上がる「夏」で締めくくったが、最後はアンコールの嵐。彼の「風ミロンガ」、2度目の「フーガと神秘」,そして、最後はやはり4人での「石蹴り遊び」。完全に時間オーバーだったらしく、ここで終了したが、スタンディング・オベーションで盛り上がっての終了だった。じつは、個人的には前日は岡山での宴席で盛り上がりすぎて、かなり疲れて挑んだのだが、最初から最後までたっぷり楽しむことが出来た。全体に4人で演奏した曲がやはり評判が良かった。でも、このコンサートにはピアソラも初めてなら、シーグレルも初めてという客もたくさんいたはず。オケの美しいサウンドを期待してきた客も、すでに本格的にピアソラ、シーグレルのストイックなサウンドのファンに確実に移行しそう勢いを感じて嬉しかった。11月はかなり盛り上がる事間違いなし。

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