夢のサルヴァドールへ


さて、リオでのゆっくりとした時間を終えて、いざサルヴァドールへ。夢の地へ向かう時の子供の気持ちと同じで、かなりウキウキする。サルヴァドールには午前中に到着。空港もすっかり立派になっている。何より、この肌にむせるような暑さがたまらない。夏は暑すぎたりもするけれども、今は冬だからなおのこと心地よい。タクシーの運ちゃんに,この土地のことが大好きだと告げると、急に親切になって色々話し出してくれる。

今回泊まるビクトリア地区のホテルに向かうまでに、市内の真ん中を走る高速道路から見える景色は最初に来た時と比べると考えられないほど現代的な、高い新しい建物が目立つ。で、凄い変わり様だ、と運ちゃんに話しかけると、「でも、やはりここの人間は古い伝統的なものは残って欲しいと思っているんだが,今の市長はまったく駄目でね。すぐに新しくしたがる、という。途中までは確かい、とも思ったが、目的地に近づくにつれて昔ながらの良く観た景色がそのまま現れてきた。運ちゃんの言うほどでもなさそうだ。で、ホテルとしては中くらいだが、過去に泊まったホテルで一番景色が印象深かったソル・ビクトリア・マリーナに到着。ここは、市で一番の劇場、カストロ・アルヴィス劇場にも近いからアーティストたちもよく利用する古いホテルだ。何よりも良いのは部屋の窓全体から全面に海が観泡足せて,一番向こうにはイタパリカ島が鎮座している。ここの朝焼け度来夕焼け時は何にも代え難い美しさだ。

ただ、今回非常に残念だったのは、何故か会場にたくさんのタンカーらしき大型船がたくさん。サルヴァドールの沖合で油田が出て、その油田での石油の運搬許可証がこの湾の端の方でとる必要があるために、大型船がいつも並ぶことになったのだとか。はっきり言って、これだとパナマ運河か、シンガポールの海のよう。もっとも、ここの海はまだ広いからいいものの、もう少し景観に配慮する方法はないのだろうか?なんとか邪魔のない、広く美しい、限りない景観の海に戻って欲しい。

さて、今回はどうも最初にネットの接続で苦労することになっているらしい。ここも、何故か駄目。いつもの部屋番号やパスワードを入れるが免じたいが現れない。で、ホテルの人間ではわからないから、ネット担当の会社の人間とやりとりするがどうも駄目、後は、彼がここに来て触ってみるというので,そのまま外出。まず、簡保・グランぢの方を散歩。カンポ・グランジは、84年、我々が一番最初にカルナヴァルにやってきた時の中心地区で、カマロッチが組まれて、ここからあの大行進が始まる場所だった。われわれはリオ・ヴェルメーリョのホテルに泊まっていたから、このすぐ近くの坂下までタクシーで来て、真っ暗な坂を登る。普通だったら何でもないのだが、昼間でも危ないと言われたこの地域を、真っ暗な中に黒い光った目が光る坂を登るわけで、男2人といえどもかなり恐怖を抱きながら登ったのを覚えている。このカンポ・グランヂの付近は昔とまったく変わっていない。

 テアトロ・カストロ・アルヴィス。ここでは昔からジルを始め、日本に招聘するアーティストたちのショーをたくさん観てきた。大きい上に音響、照明の設備も完璧だ。そして、そのすぐ隣りにコンシャ・アクースチカという大きな野外劇場がある。ここでは、友人のダニエルが「フェスティン・バイーア」と言う「イベントを毎年行っていて,それは優雅なアーティストたちの演奏を楽しんできた。もっとも、フェスティン・バイーアはその後急成長して,市内のもっと大きな場所でも行われるようになったのだが、ここでのフェスティンが一番記憶にある。と、このコンシャの入口にあるポスターを発見。なんとアナ・カロリーナのコンサートがブエノスに戻る前日の4日にあるという。今回は「仕事せず」に来たはずだったのに、アナ・カロリーナの声は別だ。大好きな部類の声。さっそく,日本の編集部に電話して、今やリオの大プロモーターに出世したサイモンに連絡して貰い、取材許可を取って貰うよう指示ブラジルに持ってきた自分の携帯が通じず、日本から連絡をとって貰ったわけだ(後で気がついたが、じつは自動で有線ネットワークを選ぶのではなく、WCDMAのみを選ばないとブラジルのネットワークオペレーターには通じない。ちなみにアルゼンチンではGSMのみを選択する必要がある。理屈的にはどちらでも自動で出来るはずなのだが、実際にはできない)。サイモンは優雅にロンドンでオリンピックを楽しんで帰国したばかりですぐに手配してくれた。

 さて、このバイーアでは90年代にザ・ブームの公演をおこなった。彼と行った最初の公演地がこのサルヴァドールで、私は仕事の都合で初日に到着したのだが、就いた途端に楽器類を始め大部分の荷物がリオの空港にストップされているという。青ざめた記憶があるが、それでもブラジルだ。なんとか痛感を経て,届いたのがここの夜中の12時頃だったか。10時くらいから始めるはずのコンサートを結局1時頃から始めたのを思い出す。それでも,躍起になっているのは日本人の我々だけで、ブラジル人たちは「良くあることだから問題ない」と悠然としている姿に驚いたものだ。でも、なんとか宮沢プロジェクトをスタートさせた地だった。カルリーニョス・ブラウンとの録音も良い想い出だ。日本から散々作品の要求をしていながら,我々が録音当日にスタジオに行くと、当のブラウンはスタジオに何時間も遅れてやってきて、挙げ句にそこで初めて作品を創り出すなんてもの凄い思いをしたこともあった。

そんなことを思い出しながら,夜になってある友人と会った。この友人には今回随分世話になった。その人の名は北村欧介。一番最初は,これも宮沢ツアーがらみだった。こちらでコーディネートしてくれたダニエルが見つけてきた通訳の一人が彼だった。彼は当時はJAICAでサルヴァドールに滞在していて、たまたまダニエルと知り合いになっていた。結構おとなしめだが、最初からどこか面白う名人間ですぐに友人になった。と言っても私よりも20才も若い友人で、とにかく変わっていた。彼のことを我々はオースケと呼んでいるが、まだ日本人が圧倒的に少なかった時代だ。この土地に住んで、ある時から故浅田資料の弟子の湯/君と出会い、カメラマンを志すようになった。で、この街のあのラセルダというエレベーターからほど近い,古い歓楽街をメインの仕事場として選び、なにやら怪しい写真を撮り始めたのだ。そのオースケ,今ではリオの世界的に有名なカメラマン、ミゲル・リオ・ブランコの手も借りて、サンパウロや、ニューヨークで展覧会を開くほどの活躍を見せている。今でもフィルムにこだわり、現像、焼き付けはサンパウロやニューヨークでやるという徹底ぶりだ。彼は来週から行われるさんプア絽での展覧会のため多忙なはずだったが、さんプロに向かうぎりぎりまで色々と世話を焼いてくれた。持つべきは友人だ。

さて、翌日はホテルの運ちゃんと話をつけて市内の撮影。本当はまずボンフィンの教会から少しづつタクシーを乗り継いで、と思っていたのだが、このタクシーの運ちゃん、名刺の名前を「ジョン・レノン」と名乗るとおり,大の音楽好きの上、やたら面倒見がよい。で、ボンフィンからそのままずっと付き合えるか?と聞くと「喜んで」という。ボンフィンに着く前から、週末になると若者で一杯になるヒベイラ地区から、ポルトガル情緒たっぷりの風情あふれる街角など,実にかゆいところに手の届く案内ぶりだ。あのカルリーニョスが愛したアイスクリーム屋も立ち寄ってきた。ボンフィンの後はヒベイラのメルカードを運ちゃんの案内で全部廻ってみた。このメルカードは一番大きな市場で、ここが一番安いから,街中の業者たちもここで毎日買い付けをして、何人もの手をわたって、最終消費者の口に入る,とそんなところだが、なにしろ驚異的に安いし何でも売っている。まぁ、彼と一緒だと,メルカードの連中も何でも話してくれるし、笑顔が絶えないから便利だ。話によると、この非常に古いメルカードも、いよいよ市が新しい建物を横に立てて、鉄筋の立派な場所になってしまうらしい。別にここの住人たちはそれを切望したわけではなかったのだが、彼らによると市のメンツの犠牲になったらしい。

そして、ペロウリーニョへ。まさにサルヴァドールの初心者ツアーだが、弊社のデジタルになってからのフォト・ストックにはこの街がない。たしかに、デジタル全盛になる前に来ていたのだからしょうがない。それで、そのためにもいわゆる代表的写真が必要だったわけだ。で、ペロウリーニョ。ここもさほど大きく変わっていなかった。84年当時からすると大きな変わり様だが、90年代ですでに今のように色の塗り替えも終わっていたからそう変わった感じがしない。しかし、肝心の広場。ここにはあのジョルジ・アマード記念館があるのだが,今年の8月?日、ジョルジ・アマード生誕100年を迎える。その準備もあって、記念館横の建物でペンキの塗り替え中だ。せっかくの写真チャンスが台無しだが,我慢するしかない。

黒人たちが一生懸命に作り上げたというサンフランシスコ教会も久しぶりに堪能したが、ポルトガルの歴史そのままに、古いアズレージョが並んでいるし、確かに金の料は半端ない。豪華絢爛な教会だ。損雨遺書を廻って、しばし休憩。

夜は、エレベーター近くの北村オースケ写真家の仕事場を覗かせて貰うことに。街のセンターからすぐの所にあるのだが、古い寂れた建物ばかりの中に、一軒か二軒あかりがついている、そんな風情だ。昔は,嫌揺る安歓楽街で、居酒屋やBAR、安売春街だったという。ポルトガル,リスボンの回酒。度。祖どれー駅周辺のあの猥雑な雰囲気そのままだったに違いない。オースケはこの雰囲気をすっかり自分のメイン・スポットと決めて写真を撮り続けている。東京のニコン・サロンでも展覧会があって覗かせて貰ったが、実に深い味わい深い作品群だ。で、今は,本当に寂れている。と言うのも、急峻な崖沿いに建てられた古い建物ばかりのため,最近はいくつもの建物が損壊し、最近でも死者まで出る事故が相次いでいるからだ。たしかに、不利家のkべが木の棒で支えられていたりなかなか痛々しい雰囲気だ。その中に、オースケがいつも通う「マニラ・バー」という店がある。何でもない単に古いだけの店なのだが、ここには昔マニラからやってきた舟の船員たちが良く来たことからこの名がついたらしい。もう80近い婆さんが経営しているらしく,中には大分「元」娼婦のお婆さんや色めきだった男たちが屯していて、まるで映画の世界のようだ。こんな「必ず消えてしまう場所」を堪能しながらサルヴァドールの2日目を終えた。

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