創刊700号完成の嬉しい知らせ


アルゼンチンでの活動も本格化してきた。まず、今後の企画の固めと交渉だが、この世界だけはメールと直接会ってのものでは全然違ったものになる。幸い、この国とは長く付き合ってきただけに、直接会って話すと間に横たわる障壁が意外に簡単に取り除けることが多い。しかし、今回は、まったく事前の連絡なし、最初からの連絡が殆ど。目指すアーティストに会う順序からして重要になってくる企画。で、すでに世界的なタンゴの巨匠たちと電話連絡。今日その内の二人と直接会って内容を説明、協力を確認できた。ただ、タンゴの世界もいよいよ国際化してきた。パリ在住とかNY在住のアーティストたちも非常に増えてきている。しかし、日本から電話するのと、こちらに来てここから電話するのとでは大分効果が違う。この辺の機微がわからない日本の企業が殆どの中、これはもちろんリスクを伴うことだが、実はこれが一番大事だ。

今回はブラジル大使館との共同企画の件で、リオにも数日滞在するが、その飛行機、ホテルの手配も完了した。で、リオに住む元社員のテツに連絡。相変わらず元気にやっているようで嬉しい。なんでもリオで来月からはじまる「地球サミット(通称リオ+20)」を手伝う予定なのだが、電通がらみで作る予定のパビリオンがブラジル側のごたごたが影響して、まだ話が進んでいない。で、今のところは時間あるとのこと。今から約20年前、ブラジルにとっての国際的なイベントとして当時は最初の大きなものだったように記憶する「地球環境サミット」。世界の「環境」に対する意識もあれから飛躍的に高まったし、エコ製品も広がって、それに伴うかのように新興国が飛躍的に発展してきた。

今回のテーマは
1)持続可能な発展と貧困 解消の文脈におけるグリーンエコノミー
2)持続可能な発展の ための制度枠組み
の2つらしい。原発問題で狂った対応に明け暮れる政府も、未だに自分たちの置かれる立場をまったく理解できていない東電の幹部たちも、これに出席して大恥でも掻いたらよいと思うが…。

平成 23 年度独立行政法人環境再生保全機構地球環境基金というこれまた怪しげな団体の助成金を受けて作成されたパンフによると、「地球サミットは、政府だけでなく、企業、労働者、市民、女性、 先住民、若者、農家、科学者、自治体にも開かれており、これら ステークホルダーのキーパーソンが世界中から集結します。 期 間中は、総勢10万人を超える来場者が予想されるほか、世界中 のメディアの報道、さらにインターネットからもグローバルな参 加が見込まれます。特に、地球規模課題の解決におけるビジネスセクターの役割は重 視されており、環境技術に興味がある世界の政府や企業、NGOとのビジネス・マッチングの機械が期待できます」とある。地球環境を世界規模で考え、重要政策を分かち合った意味で非常に大きな成果を上げた20年前のリオサミットの再現をになっているこの会議、今日本こそ力を入れて参加すべきものと思う。

さて、ブエノスでの仕事もここまで大分進んだが、その間に日本の編集部から「ラティーナ創刊60周年、700号記念号」が完成して弊社に届いたと報せがあった。FBで写真付きで連絡が来た。これを早速シェアしたところもの凄い数のみなさんからお祝いのコメントを頂いて驚いている。

創刊700号というのは、私が言うのもおかしな話だが、確かにもの凄いことだと思う。1952年といえば、敗戦後、アメリカの占領下にあった日本が、アメリカと平和条約を締結し、安全保障条約を発効させて(4月28日)、事実上占領支配から脱却して主権を回復した年。GHQが廃止された年だ。この年の5月5日、慶応大学の学生だった加年松氏が発案して中南米研究会の同人誌として発行されたのが現「ラティーナ」の前身「中南米音楽」だった。加年松さんをはじめとする初代の編集部はタンゴだけではなくラテン・アメリカ全体の音楽の紹介を目指したものの、当時人気のあったタンゴの記事に偏ったことを悔いた後記が創刊号に書き記されている。

しかし、当時と言えば日本中が物資不足の時代、本を作る紙を手に入れるだけでも大変な時代だ。季刊誌としてはじめたものの3号目にしてすでに経済的な問題を抱えて四苦八苦していたという。この状況を変えたのが、当時埼玉の結核療養所にいた中南米音楽前社長中西さん。療養所で看護婦さんたちに手伝わせて数号はガリ版刷りで発行続けたそうだ。療養生活が終わって、中西さんはこの雑誌を商業誌にしようと頑張って、やがて月刊誌として形を整えてきたというのが当初の歴史だ。創刊当時の記事に目を通すと、中南米の音楽に対する溢れんばかりの愛情が見て取れる。

私がこの雑誌の存在を知ったのは大学に入ったばかりの頃だったが、なにしろカタカナ表記の人名が多い、非常に読みにくい雑誌で、興味はあるものの、しっかり読むと言う状態にはなっていなかった。それが、レコード会社に入って「ラテン」の担当になり、パコ・デ・ルシア、メルセデス・ソーサ、クリスティーナ&ウーゴ、ピアソラ、ジル、カエターノ、マリア・ベターニアといった当時名のまったく知れていないアーティストたちのLPを企画すると、中南米音楽は全く無視できない、どころかなくてはならない存在に変わってきた。たしか、フォルクローレ・シリーズを発表する時には宣伝部を口説いて資金を調達、32ページ分を買い取って記事風なページを自分たちで作成、ついでにその32ページ分を小冊子にして宣伝材料として使った記憶もある。今時では決してあり得ないやり方だが、中西社長は私の必死の売り込みに心を開いてくれて実現したことだった。ちなみに、この説得のために中西さんは私を自宅に招待してくれたが、その時に出されたの大嫌いな鰻。このチャンスを逃したくない私は、目をつぶって一気に喉の奥に流し込んだのを覚えている。ただ、それまでの私は鰻の形状を嫌いなのであって味は結構好きな部類のものだと確認。以来、鰻は私の好物の一つになった。

そして、遅刻はする、上司の言うことは聞かない不良社員が、会社を辞めてスペインに逃亡したわけだが、わざわざそのスペインに電話して誘ってくれたのが中西さんだった。それでも、後1年勉強して帰りたいという私に「そんなの半年も1年も同じだよ」といういい加減な説得をしてくれたのが高場編集長だった。それでも、グズグズしていると、「スペイン広場の前にスイス航空のカウンターがある。そこに帰国のチケットを置いてあるから」と中半強引に帰国させられたのだ。

以来、中西社長には中南米での仕事の仕方の殆どすべてをたたき込まれた。日本中にコンサートを売り込む時に、関西から東北に向かう私が資金が足りなくなって困っていたら東京駅までやってきて資金を渡してくれた、なんてこともあった。かなりタフなラテン世界独特の交渉術、人脈、中西さんから教わったすべてが今に繋がっている。「大きく稼ぐよりも続けること」の大切を教わったのも中西さんからだった。銀座でライブハウスを成功させた中西さんが、あるきっかけで失敗。その失敗した時の周りの人間の豹変ぶり、それを体験した中西さんは何度もそれを私に言い聞かせてくれたものだった。

しかし、83年、ピアソラを初招聘した年、ブラジル音楽の招聘を始めて4年目の年に、中西さんは突然、雑誌を辞めると言い出した。その真意は実は未だにわからないのだが、経済的な問題も少しはあったのかと思い、「絶対に赤字にならないスタイルに作り替えるから続けさせて欲しい」と懇願。1月の休刊を挟んで「月刊ラティーナ」として発行し続けることが出来たのである。広告料を取るのに四苦八苦した割には誌面に注文の多いスポンサーは今度は最初から計算に入れず、すべてのページをモノクロにして自分たちの思うような記事造りを出来るようになったのはそんなことがあったからだった。広告料収入に頼ってきた当時の雑誌が最近廃刊、休刊するのを見ると、あの早い時期での決断は間違っていなかったのだと思う。

それから、時代は変わって世の中はCDの時代、デジタルの時代になって、音楽業界全体が大きく変わってきた。今、業界全体がまさに厳しい時代を迎えている。しかし、どんなに時代が変わろうとも、中南米の音楽や文化の価値は衰えるどころか輝きを増すばかりだ。当時はあまり活発でなかった国々の音楽の質も飛躍的に向上している。弊誌に協力的かどうかは別にして、それぞれの国の文化のオーソリティもたくさん生まれてきている。結局はそのすべてが弊誌が存続して来れた成果と自負している。

700号という途方もない記録の一端を担えたことに今更ながら感動させて頂いているが、これこそ、この雑誌に関わってきたすべての読者、国内外を問わず協力してくれたライター、プロデューサーたち、カメラマンの皆さん、音楽家のみなさん、印刷屋の皆さん、はたまたこの雑誌と一緒になって活動を続けてきたステージやイメージ関係の仲間の皆さん、すべての方々に心から感謝したい。弊社もすでに若い世代に活動の主軸は移りつつあるけれども、中南米音楽創刊時の熱意だけは今もまったく同じだと思う。この困難な時期に、面白い記事を提供し続けるのは容易なことではないが、今のスタッフ、ライターの皆さんの熱意の上に、日本では一番熱い記事を送り続けられる自信(勘違い?)だけは旺盛に持っている。はっきりってこの偉業は弊社のものではなく、日本のラテン音楽へ情熱を持っているすべての人の成果だとも思っている。

この記念号は34ページを増やして、船津編集長を始めたった5人の編集部(殆ど寝る間はなかったと思う)と頼れるライターの皆さんの協力の末に出来上がったものだ。この雑誌はいつも熱意のためにページを解放している。一つだけ、現地の正しい情報で世界中の音楽ファンと同目線の感覚を共有できる雑誌でありたいと願う気持ちは共通項にしたいが、それさえあれば、どんな人にもスペースを提供する準備は出来ている。今後とも熱意ある皆さんの投稿も待っています。

FBの書き込みには世界中の仲間から祝辞が相次いでいる。弊誌をモデルにして始まったロンドンの雑誌や、弊社をモデルに制作会社を立ち上げたブラジルの仲間は飛躍的に発展して、弊社の手の届かないほどの大成功をおさめていたりする。今も、そのブラジルの友人から、祝辞と共にリオでの大コンサートの招待が届いた。こんな日本だが、諦めることなく彼らに負けない活動が出来るように今後も頑張っていきたい。

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