充実したタンゴ・フェスティバル!!!


ブエノスアイレス市が肝入りで始めたタンゴダンス世界選手権も、今年で10回目を迎えることになった。いつもは選手権の始まる20日過ぎからの参加だったが、今回はその前に仕事があって7月中に入っていたので、そのまま残ることにした。そのせいで、今回14日から始まるタンゴ・フェスの方もゆっくりと眺めることが出来た。

 5月にも2週間以上ブエノスに滞在していたのに、その時と比べても、ブエノスアイレスはかなり変化を見せていた。まず治安の悪化。あの泥棒の巣窟と言われるオンセ駅の周辺だけでなく、コリエンテス大通りのカジャオ通り交差点からアバスト方面に至る歩道上にも路上物売りが一杯溢れる様になっているし、パレルモ、ベルグラーノと行ったいわゆる高級と言われる地域でも確実に犯罪が増えてきている。賃金の上昇率に比べて物価の上がり方は半端ではなく、庶民の生活が苦しくなってきているのは誰の目にもはっきり。だから、もうブエノスアイレス名物と行っても良いほど有名になったストライキも連日どこかで行われている状態。8月3日から続いた地下鉄のストライキも当初5日間だったはずなのに結局妥結したのは13日、計10日間市民は地下鉄なしでの生活を余儀なくされた。とはいっても、ここの街では地下鉄のストや道路の混雑には普段から慣れてしまっているせいか「ギネスものだぜ」と呆れるだけで、さほど大きな混乱があったようにも見えない。さらに6月のリオでの環境会議の頃から始まったトラック運転者労組のストのせいで、街中のゴミ収集が上手くいってないこともあって(ゴミ収集も同じ労組)、街がかなり汚れてきた。さらにコロン劇場の再オープンの頃から表面化したブエノスアイレス市政府とクリスティーナ大統領のアルゼンチン政府の仲の悪さも頂点を極めていて、市が運営する地下鉄の警察が国管理という変則形態を、国の方がおかしいと一方的に警察を引き上げたこともあった。かなり子供じみた喧嘩でマスコミの格好の話題になっているが、市民の方はこれにも慣れきっていて、嘲笑するばかりだ。

さて、そんな中開催されたタンゴダンス世界選手権の第10回記念大会。しかし、この大会は現在の市政府がはじめたものではなく、その前のイバラ前市長が海外で人気の「タンゴ」を徹底的にリサーチ、その結果、タンゴはブエノスアイレス文化の宝物と2003年にはじめたものだった。我々の元にその市政府からアジア大会開催を打診されたのが2004年、世界大会の第2回目の年からだった。当初は選手権の会場も狭い市立劇場だったり、決勝も真冬の風が身にしみるイベント会場だったり、今から考えるとかなりお粗末だったが、タンゴに若者の目が向かなくなっていた時代背景を考えると、このイバラ市政府の決断は大きなものだった。その市政府で文化長官を務めたロペス氏は、このタンゴ選手権だけでなく、市内に残る貴重な文化建築物にも焦点を当て、その改築事業も始めた。2006年3月そのイバラ市長が、2004年末におこったオンセ地区にあるクロマニオンと言う名のディスコ火災(194名の犠牲者)の管理責任を問われた裁判で公職追放の判決を受け離職、2007年の選挙まではイバラ同系のテレマン市長のもとこの選手権も行われたが、2007年の選挙で今のマクリ新市長誕生の際には、イバラの名事業と言われた選手権を取りやめるだろうとの憶測が広がって心配したものだった。この選手権は保守的なアルゼンチン国内でも完全に認知され、確実に国際的な広がりを見せ始めていた頃だったから…。

 しかし、現マクリ市政府はこの選手権に関しては止めるどころか逆にもっと盛大に…と言う方向でやることになったのである。それまで3月にタンゴ・フェスティバル、8月にタンゴ選手権としてきたものを、「8月はタンゴ」のキャッチフレーズで両方まとめて行うようになったのだが、規模もかなり大がかりになって来た。実は選挙が行われてからフェスティバルの3月までは時間がなく、しょうがなく8月に両方一緒にとなったのだが…。タンゴ関係者は一様に安堵の顔を見せたものだった。フェスティバルを街の中心に近い場所にし、決勝を8,000人は収容できるルナ・パークで行うこととし、市民にもっとアピールしやすい体制にして再スタートしたのである。しかし、予選、準決勝の会場はいつも間際まで決まらず参加者をイライラさせたものだが、昨年から今の展示センターに決まって落ち着いた。今、この大会で何回目とはっきり歌わないのは、前市政府の事業を受け継いだものではないという今の市政府の気持ちの表れだ。

 それにしても、内実は今年第10回目をしっかりやりたいというスタッフたちのやる気は至る所に見られた。まず、例年にも増して、コリエンテス大通りをはじめとした多くの大通りには一丁毎にフェス=選手権の街頭デザインが踊り、否が応にも祭り気分を感じるようになっていた。今年からはボカ地区に新しくできたウシナ・デル・アルテ(国有発電所跡地を改築)という立派な会場を使えることで、フェスティバルのコンサートも格調高くなった。タンゴ発祥の地、ボカに近い相当危険な貧民窟のすぐ近くにあった発電所跡を美事な文化施設として再開発したのがこのウシナ…だが、3階建てのこの建物のなかには立派なクラシックホールの他、多目的なイベントに使えるようにと、全体を非常に機能的に考えられた建物だ。まだ認知度は低いが、十数年前に「セニョールタンゴ」という巨大タンゴ・ハウスができた頃からこの地域の再開発は決まっていて、数年前から確実に再開発が進んできている地域で、日本のNECの南米本社もこのウシナのすぐ隣りに建てられている。今回はここの他チャカリータ地区のレヒオ劇場、さらにセンテナリオ公園野外劇場、さらにコロン劇場まで使ってのフェスティバルで、フェスティバルの総合プロデューサー、モッシ氏も素晴らしい会場を得て、就任以来初めて満足な仕事が出来たのではないだろうか。それほど充実した内容のフェスティバルだった。

 今回、個人的になにより嬉しかったのはウシナで催されたオスバルド・ベリンジェリの復活コンサートだった。ベリンジェリについては数年前から、もう絶望的と言われるくらい暗いニュースしか聞いていなかっただけに、プログラムに「ベリンジェリ楽団」の名を見ても信じていなかった。が、一緒にいた当編集部の鈴木多依子が「巨匠ステージに帰ってくる…と書いてありますけど…」と呟くので、確かめてみると確かに。急遽行き先を変更、ウシナへ。予約してないから入るのに一苦労だったが、プロデューサーのモッシと連絡取れだの、大臣と連絡とれだの…理不尽なことを連発していたら、ついに入場を許可された。で、入ってみるとそこにはパブロ・アグリの弦楽アンサンブルとオラシオ・ロモのバンドネオン、クリスティアン・サラテのピアノ。途中でベリンジェリの紹介。最前席に座るベリンジェリの姿があった。あの分厚い眼鏡はしていないが確実にあのマエストロ、ベリンジェリだ。紹介に,夫人に手を引かれてようやく立ち上がるベリンジェリが。満場がすでにスタンディングでマエストロの病気からの回復を祝う。が、そのまま座ったので、この日はもう演奏は無し?と思っていたら、数曲演奏した後アグリが立ち上がって、ベリンジェリに話しかけ、遂に、遂にマエストロがステージに。しかもサラテに手を引かれピアノ椅子に座るではないか。そして…以前ほどの超絶ピアノではないにしても、確実にマエストロ・ベリンジェリのあのピアノの音が聞こえてきた。曲が進むに連れて、徐々にベリンジェリらしさが…感動…涙ものの感動だった。終演後は会場中がスタンディング。80過ぎとは言え、あのマエストロだ,必ず完全復活する日も遠くないと感じる名演だった。 (弊誌「ラティーナ10月号に掲載)

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