久しぶりの沖縄


北海道で流氷を覗いた後少しして、今度は関西公演、と沖縄公演と廻ってきた。個人的に沖縄は返還前の69年春に学生時代の演奏旅行で渡っていたこともあって、大好きなところ。その後、今の仕事に就いてからも、普通の公演や、基地内でのアトラクションの仕事など何度も沖縄とは付き合ってきた。基地内での仕事はあまり気持ちの良いものではなかったが、その頃は単なる会社員だ、特にタンゴのアーティストのリクエストがあったために行くことが多かった。その昔招聘していたギターラス・デ・オロなど、小さなグループばかりを連れて行ったと記憶している。「島唄」騒動の2002年頃は宮沢氏、カセーロ氏と3人で竹富島、沖縄本島で一緒にあの暖かい空気を吸ったりもした。

69年春、訪れた沖縄はまだ復帰前。この年に佐藤=ニクソン会談で復帰は決まったものの、まだまだ占領下であった。貨幣はドル、自動車の対面交通は右側通行だった。(この対面交通は復帰後6年経った78年7月30日から本土と同じ左側通行になったので「ナナサンマル」と呼ばれた。復帰を大きく印象づけた一大イベントだった)。鹿児島から沖縄航路で24時間かけて到着。その船が「ひめゆり」だったか「おとひめ」だったか定かではないが、当然船底の2等客室。戦後の臭いの強かった国際通りの風景も良く覚えている。この時の我が学生団体の演奏はかなり恥ずかしいレベルだったが、我々のフラメンコ・セクションへの拍手、なかでも明るいルンバ・フラメンカへの拍手がすごく、感激したのを記憶している。琉球新報の一面で報じられ、会場も琉球新報ホール。けして大きくないホールだったが、米国の軍人がいたりで満員だった。

その頃は、やがて自分が南米と関わる仕事をするなど想像もしていなかったから「移民」の話については、恥ずかしい話だがさほど関心がなかった。その後南米に渡ル用になって、日本からの移民の多くが海外に移住して戦時中もかなり悲惨な体験をしてきたことを直接知ることになるが、あの第二次世界大戦終了後、占領下にあった沖縄の人々を援助したのも世界中に散らばっていた沖縄移民たちからの物資だった。戦時中、敵国人として扱われ、戦後には財産まで没収された世界の沖縄移民たちが故郷である沖縄の惨状に、その復興を願って援助物資を「米国船」で届けたのだ。ペルーでも、ブラジルでも、アルゼンチンでもボリビアでも、沖縄移民一世たちの味わってきた酷い境遇は今では広く知られているが、その沖縄の方々の「絆」の強さには頭が下がる。

沖縄の移民は、本土の移民に比べると15年も遅い1900年になってから。琉球王国時代から残る「地割制」(土地を集団で共有する)に縛られていた沖縄の人々は、明治政府による近代化で土地を所有して、それを売り買いできるようになった。そこに、沖縄県が過剰人口を抑えるためもあって移民政策を進め、加速度的に移民するようになったのだという。あの悲惨な地上戦が行われた戦争の後、米軍統治に組み込まれた琉球政府は「米国の指示の元」海外移住を促進した。まぁ、あれだけ基地に面積をとったら「過剰人口」もどうかと思うが。昭和23年、早くも沖縄海外協会が設立されている。その年、戦後最初の移民はアルゼンチンへ向けた33人と、ペルーへの一人だった。ブラジルでも、ペルーでも、アルゼンチンでも、ボリビアでも、私はその移民の方たちの作り上げた素晴らしい社会を目にしてきたが、彼らの初期のご苦労が想像を絶するものであったことを何人もの人から直接聞いてきた。今、南米の日系社会はどれも確実に現地で尊敬され、現地に大きな影響力を与える社会になっている。

今回久しぶりに訪れたひめゆりの記念館で、学徒隊生存者のひとり与那覇百子さんにもお会いできた。百子さんたちはこの記念館で戦争の体験を語り継いできているが、彼女たちの言葉で一番重いのは「米軍が悪いと言っているわけではありません。悪いのは戦争です」だ。最近まで、本土から招待されてあちこちで講演してきたが、いよいよ年齢を感じるようになったため、これからは出来るだけ沖縄で活動していきたい、と仰っていた。映画や録画、本などにその貴重な証言は残されているというものの、生存者たちもすでにかなりのご高齢だ。戦後60年以上経って、まだまだこの島では解決されていないたくさんの問題に包まれている。

今回は、ほんの少しの時間を使って沖縄の中南部を廻ってきた。69年に来た時や70年代にはそのまま全貌が見られた米軍基地。那覇からすぐ近くの宜野湾市にある普天間基地は思いやり予算で作られた民家や木々に囲まれて外からは殆ど見えない。あのもう少し中央よりの嘉手納基地、嘉手納飛行場もやはり民家や木々に囲まれて見えなくなっているが、海側の道路からほんの少しと、道の駅「かでな」の4階から飛行場の全貌が見えるのみだ。4,000メートルの大滑走路2本を持った極東最大の米軍基地は、いずれ返還されるなどと言う甘い観測があり得ないほどに機能が強化されている。望遠レンズで覗いた先には、新設中の戦闘機用防護施設、つまり最新の戦闘機格納庫が並んでいる。沖縄県が要求する2015年までの返還とは正反対の方向に進んでいる様子が誰の目にもすぐわかる。

次に辺野古に行ってみた。名護の許田ICからそう遠くない。辺野古周辺に近づくと、いわゆるキャンプ・シュワブの広い敷地が圧迫してくる。第4ゲート前でカメラを向けると、兵隊が両手でx印。仕方なく運転しながら左窓を開けて撮影。このキャンプは第3海兵師団戦闘教習大隊、第4海兵連隊がいて、実弾射撃訓練が行われている。辺野古の街は60年代までは軍の関係者たちが遊ぶので賑わっていたらしいが、今では殆どの飲食店が店を閉めたままになっていて寂しいもの。辺野古の街から海に降りたいと思ったが、それが適わず、さらに進んで二見、久志側から埋め立て案として上がっている辺野古崎辺りの海を眺める。ジュノンの生息北限として地元が埋め立てに反対する海だ。そこで釣りをしていた男の人と話したが、もう随分昔からキャンプ・シュワブの中では海側野山からもう一つの山に向けて実弾射撃訓練が行われているのだとか。ここからあの名護の中心街まではすぐ、沖縄美ら海水族館までは山が間にあるとは言うものの車で30分ほどの距離だ。本土化した名護の街並みや、進んだ観光産業のすぐ近くでやはり悲惨なままの基地が構えている。原発だけでなく、日本が抱える大きな問題が、政権に関係なく放置されるどころか、悪い方へと導かれている。政争の具にするのではなく、これだけの悲惨を押しつけてきた政治家だけでなく、我々ももっともっと真剣に考える必要がある。前日、首里城で何人もの官僚たちを引き連れて見学する岡田副首相に出会った。あの不十分なアセス評価書を巡って、なにか進展する材料でもあるのかというとそうではなく、恐らくただただ交代で沖縄を訪問して誠意を見せようとしているのだろうが、どう考えても辺野古の環境、たとえばジュノンの件や埋め立ての土砂の問題など、実現するにはほど遠い問題が山積している。周りの山を切り崩す案もとんでもないが、それでもまだ8割の土砂をどこから持ってくるのかも提示していない。日本政府は何をやろうとしているのか?それに翻弄される沖縄の人たちの不安は計り知れない。

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