ブエノスの日曜日

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レコレッタの街角

ブエノスアイレスに入って早速日曜日。しかもメーデーとあって人とのアポは避けていたら、弊社の宇戸が滞在の時間がない(すぐにウルグアイへ)につき、何人かとコンタクトをとっていたよう。その中の一人はタンゴダンス世界選手権の関係者で昨年日本にもやってきたフアンホ。彼は新体制になってこの選手権チームに残るかどうか悩んでいたが、最終的にシルビアに声をかけられてとどまることにした。彼はいろいろな意味でまわリの観察力が凄い。選挙でも、結果がどうなったらこうなる…みたいな話が非常によく見えていて、今度も美事に彼の言っていたとおりになった。で、宇戸が日曜日にアポというので、それはフアンホに可哀想、と思っていたら彼は日曜日というのに夕方まで仕事だったらしい。ダンサーのカルラ&ガスパルが日本経由でヨーロッパから帰ってきた。で、一緒にとなったのだが、フアンホとは別の話があったので、ガスパルは後日会うことにした。

 

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マウリシオ・マクリ大統領

フアンホに、国と市の新体制について進行状況や問題点などを聞いた。マクリのパナマ文書問題は、マクリの親の問題だから、と意外にスルーされそうだ、という。また、ロンバルディ・メディア担当相が、どうして大臣たちよりも一目置かれているのか、と言うことも詳細にわたって聞くことができた。大統領戦の数ヶ月前の市長選挙では、ロンバルディは、現副大統領のガブリエラ・ミケッティの大参謀になった。マクリは現在市長のラレータを自分の後任として推すことを公表していたから、結果はラレータが勝つことになった。で、ミケッティを推したロンバルディは、マクリの路線から外れたのか、と憶測されるところもあったのだ。ところが、ミケッティと言えば、事故で下半身不随に陥ったのだが、その演説の熱っぽさと歯切れの良さで、実はかなりの人気者だ。今回もマクリが公然とラレータを推さなければミケッティが勝っていたかも、とまで言われていた。ちなみにミチェッティはマクリが市長になった時の副市長でもあった人だ。もともと、決戦投票に持ち込めばマクリのPROは候補を一本化できるわけだから、最初からそれを読んでPROの中で煽るという、マクリ側が打った計算だったのかもしれない。

 

それが見えたのは、大統領選だった。マクリはここで一番の人気者ミケッティを副大統領候補に挙げてきた。これで、はじめてロンバルディ=マクリの選挙戦術が見えた気がした。大統領で僅差だったが、マクリが勝利して、翌日の新聞では早くも新内閣の顔ぶれが語られ出したが、マクリが一番最初に具体的に口にしたのがロンバルディだった。ロンバルディはデラルア政権で、最後の3ヶ月くらいだったが若くして観光・スポーツの大臣を拝命した経歴を持つ。だから、誰もが今回は悪くても大臣になるだろうと思われていたが、結果は内閣官房室メディアと公共コンテンツ連邦機構の代表を拝命することになった。しかし、これは大臣よりもある意味で一番の要職と言われる。予算の使える立場でもあるから。

 

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エルナン・ロンバルディ

ロンバルディ氏は、昔からいろいろな分野で活躍してきたアイデアマンである。ブエノスアイレス大学の学生時代は土木工学や観光のマーケティング・マネージメントに没頭。卒業後はスイスのGlion Institute of Higher Educationやカリフォルニアのバークレー校で観光マネージメントの学位を取得している。彼の名を広めたのは92年から99年にかけてマルデルプラタ市にある地上100メートル(30階)のツイン・タワー、アパートホテル「マナンティアレス・タワー」の建設を総指揮したことだった。その後も2001年からコンサルタント会社を起こして代表を務め、アルゼンチンの観光産業に多大な功績を残した。ティエラ・デ・フエゴやネウケンを観光地として開発して有名にしたのも彼の功績だ。

En 1989, Hernán Lombardi conoció en la ciudad de Mar del Plata a la actriz Soledad Silveyra, con quien mantuvo una relación afectiva durante ocho años. En 1998, Lombardi tuvo conocimiento de la existencia de una hija suya, Valentina, resultante de una relación sentimental anterior que no había prosperado. Lombardi expresó tiempo después que, desde que la conoció, mantuvo siempre un lazo afectivo con Valentina. Durante su actuación pública en el gobierno de De la Rúa, Hernán Lombardi se casó con Vivian Sanz en el Club de Mar, correspondiente al complejo Torre de Manantiales. De esa unión nacería en 2006 su hija Maurina.

 

1997年になって、デラルア政権が誕生すると、彼はロンバルディに国立公園の開発を任せる意味で観光長官に任命した。2001年、デラルアは観光、文化、スポーツの閣僚を1つにまとめて、ロンバルディを大臣に据えた。しかし、この政権はまもなくして、アルゼンチンをデフォルトに導いてしまう。

 

2003年に、ロンバルディはRecrear para el Crecimientoの政党からブエノスアイレス州知事の候補になるが第7位で落選。

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浅草のロンバルディ大臣

2007年、マウリシオ・マクリがブエノスアイレス市長なると同時に文化大臣と観光大臣を兼務。2011年から文化大臣。ロンバルディは、2007年に文化大臣になった時からタンゴをユネスコの世界無形文化文化遺産にするために尽力、2009年ウルグアイと連名のかたちで登録が決定した。2007年、同時にタンゴ世界選手権を引き継いで世界的に展開、飛躍的に発展させた。

 

以上4日にロンバルディと再会するためのおさらい。ロンバルディは2年前だったか、ヨーロッパへの旅の途中、日本に立ち寄りたいというので個人的に招待して京都、広島、厳島神社を堪能してもらった。そこであのもみじ饅頭が気に入ったというので、今回は饅頭とお気に入りの日本酒を持ってきた。とにかく、忙しく時間を無駄にしない大臣だが、世界の文化にも音楽にも詳しい素晴らしい人間である。なにかまた一緒にできたらと思う。

 

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シルビア女史

さて、2日はタンゴ世界選手権のトップの上り詰めたシルビア女史と再会。旦那のカマーチョはアルゼンチンを代表する音響エンジニアで、夫婦とも非常に親しくしている。要職を引き継いだは良いが、前政権の負の遺産を抱えているために、今のところ改革の結果をだせていない。が、徐々に選手権の方も見えてきている。選手権を巡る新たな体制も教えてもらったが、なんと我ウォーン知り合えば借りがそのまま階級を上げた感じである。前の市のフェスティバルの最高責任者ビビアーナ・カ
ントーニが国ではなく、市の文化副大臣、ビビアーナの一にシルビア、アート・ディレクションの立場にガブリエル・ソリア、その下にフアンホ、アイレンと日本をよく知るスタッフばかりで動かせているよう。安心だ。

 

メモ 8/30~31 決勝(8/29~3/30) 1日前に「マリア・デ・ブエノスアイレス」

Festival 8/18~31 Mundial  8/22 Usina & Teatro 25 DE  MAYO

Paula Nekilison技術以外 Dia luis Luque 技術

Derector de Artista Gabriel Soria

Andres Casak 新しいタンゴなど

Ailen 映画の責任者

Juanjo Finales チケット等全般

 

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エルナン・ハシント

昨日はその他に宇戸がエルナン・ハシントとCDの輸入の話で会う事になっていたので、少しだけ同席した。エルナン・ハシントハ前回も会ったがなかなかの好青年。きちんとプロモーションすれば必ず人気が出ると思うのだが。日本で言われる以上にこの分野はこちらのマーケット的にはなかなか厳しいが、音楽だけはどれも上質だ。健全に紹介できれるように、宇戸を始め、弊社の俊英たちをバックアップしたい。宇戸がしっかり勉強して日本で正しいブームに持って言ってくれればと思う。