タンゴダンス永遠のミューズ、グローリア逝く!

新型コロナに弊誌休刊最終号…この 辛い、寂しい時期に、アルゼンチンの友人でジャーナリストの Silvia Rojas から、もう一つ大きな悲報が届いた。 

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 アルゼンチン・タンゴ・ダンス界最 大の功労カップル、グローリア&エ ドゥアルドのグローリア(Gloria Julia Barrudo) が、4月11日午後73才の生涯 を閉じた。昨年、彼女の最後の誕生日に難しい心臓手術から回復し、ペドロ・エチャグエ・クラブでのGENTE MILONGAで、久しぶりにダンスを披露していた。タンゴ関係者のみならずすべての人から愛され、プロダンサーとして最高だったのはもちろん、友人として、母親として、完璧な評価ばかりが目についた素晴らしい女性だった。肺水腫が原因での衰弱で、遺体は彼女の希望により火葬された。2016年10月にブエノスアイレス市名誉市民の称号を贈ら れている。 

デビュー時のグローリア&エドゥアルド

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 64年、「タンゴ王」カナロの来日に選 ばれてデビュー。グローリアはまだ14才。就労ビザを取得できないため、母親が名義上のダンサーとなり、グローリアはその娘として入国した。カナロは彼らのダンスを一目見て惚れ込み、日本に連れ行く事を決めたという。その後帰国してからも、一躍人気者になったこのカップルは毎週TV番組でタンゴの楽しさを伝え続けるよ うになった。 

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 70年代の中半、ブエノスアイレスのコロン劇場のすぐそばに、観光客目当てではないタンゲリアがあった。「カーニョ・カトルセ」だ。これをユダヤ系の友人と共同経営し、ブエノスアイレスのアンテナの立ったマスコミ人や多くのファンに向けて、素晴らしいショーを毎晩続けていたのがグローリア&エドゥアルド。セステート・タンゴも、ビルニア・ルーケも、マルコーニ、フアンホ・ドミンゲスも…ブエノスアイレスの最高のスポットだった。そして、78年、セステート・マジョールが日本公演を果たしたが、この公演でダンスの振付を担当したのが、グローリア&エドゥアルド。以来、民音公演ではほぼ毎年、振付を担当するようになった。

ブエノスアイレス名誉市民称号授賞式

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 83年、マルビーナス(フォークランド)戦争での敗戦をきっかけにアルゼンチンは軍政から民政に。アルゼンチンの軍政は、人権弾圧、拷問、虐殺…日本に伝わる以上に酷いものだっただけに、民政化は特にヨーロッパでは大歓迎された。フランス政府はパリで素晴らしいショーを提供してくれた。「タンゴ・アルヘンティーノ」だ。このショーに大きく貢献したのがセステート・マジョールのリベルテーラとグローリア&エドゥアルドだった。といって、予算は少なく、全員が国の軍用機でパリまで向かった。しかし、このショーの反響は凄まじく、その後86年のブロードウェイ公演から世界の市場に飛び出していく。その後の著名な世界的なショーでも、彼らの位置は同様だった。世界の舞台を知る彼らの存在がなにより必要とされた。

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 84年、マリアーノ・モーレスのショーに演出家として日本にやってきた。モーレスは当時のアルゼンチンではタンゴの枠を超えたスーパー・スター。その初来日はアルゼンチンにとっても日本のファンにとっても一大事だったが、ダンス・リーダーは当時国立民族舞踊団にいたカルロス・リバローラ。その彼とグループにタンゴを歩き方から教え、エドゥアルドは演出家として一緒に日本にやってきた。素晴らしい作品だった。

タンゴダンス世界選手権で。開始時の尽力は計り知れなかった。

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 そんなある日、オベリスコ近くの気の利いたカフェで、そろそろ自身の舞踊団を、と勧めたが、何故か最初エドゥアルドは控え目だった。だが、背中を押したのはグローリアだ。その結果「エドゥアルド&グローリア舞踊団」が実現し、日本公演を行った。それは大仕事になり、コロン劇場の舞台や衣装のスタッフも、皆が応援してくれた。彼らがいかに誰からも愛されていたか。結果は大成功、世界のプロデュサーたちがさらにタンゴ・ダンスを注目するようになった。85年にはF・ソラーナス監督が軍政から逃れた亡命者達の苦悩を描いた映画「タンゴ—ガルデルの亡命」に出演。グローリアが一番輝いた映画だった。

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 80年代の後半だったか、グローリア&エドゥアルドは、ボエドの自宅近くの3階建てのビルに「タンゴ・アルヘンティーノ」という大きなスペースをオープンした。私はアルゼンチンを訪れる度にそこに連れて行かれて、踊りもしないのに、横でミロンガのダンスを勉強させられた。「タンゴ・ダンスを世界に再認識させるには絶対にアクロバットも必要だ。しかし、基本はここの、例えばあの老人の腰から流れるステップ…ある意味、日本の阿波踊りに共通する点…」と教えられた。そして、グローリアの手を引いてステージの中央に出ると,もう踊る前から大喝采。その風景を長い間横で眺めてきたが、グローリアは、あのカップルのダンスのもう1人の見事な振付家でもあった。それは年老いてきても、誰からも愛されるステップだった。88年、外務省主催の「タンギッシモ」は、国民的大歌手ゴジェネチェを中心にした難しいステージだったが、練習は緊張の毎日。今思うと、あの大仕事もエドゥアルドの影にいつも付き添っていたグローリアの笑顔なしでは語れない。ある意味、彼女が遺した大きな歴史的果実だ。

国立タンゴ・アカデミー会長ガブリエル・ソリアが贈ってくれた写真。

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 日本とのつながりも半端なかった。オルケスタ・ティピカ東京の少し後、坂本政一楽団の世界ツアーが途中で頓挫、バンドネオン(兼サックス奏者)の故岩見和雄さんが、残された楽団員でツアーを続けるのに、グローリア&エドゥアルドが日本の楽団を助けにアメリカにやってきた。当時マネージャー役でそのすべてを仕切っていた故鍛治圭三さん(在アルゼンチン弊社通信員だった)も大きく関わっていた。何でも、そのショーでは着物を着てタンゴを踊ったり、とにかく生きるために何でもやったのだそう。その後、岩見さんはマンハッタンのハーレム近くに「ミロンガ」というタンゴの店を開いていた。「タンゴ・アルヘンティーノ」のブロードウェイ公演の頃、その店で出演ダンサーたちは教師としてニューヨーカーたちにダンスを教えた。初心者にとって、あのグローリアの優しい魅力はみんなを惹きつけた。以来、世界中あのショーが行く先々の国ででタンゴ・ダンスを習う外国人が増えていった…。

在ブエノスアイレス大使公邸での、日ア友好議員連盟主催のミロンガパーティーで。

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 ダンス・カップルが、彼らのように長い間続けるというのはなかなか簡単でない。長く続けられたのには、グローリアの頑張りを忘れてはならない。彼らは誰もが羨む「生涯のカップル」だった。彼らの家には莫大な量のタンゴの歴史的な資料がある。本、雑誌、写真、動画…私が客を連れて行くといつも、それを一から説明して見せてくれる。エドゥアルドの話がとまらなくなると、グローリアがウィンクしながら「さぁ、アサードの時間ですよ」と言って話題を変える。ボエドにあるエドゥアルド家はそう広くはない3階建てだが、エドゥアルドが心臓を患ってから、彼のために小さなエレベータも取り付けた。立派な机と椅子と大きな本棚も用意してそれは素晴らしい仕事部屋に設えた。全部グローリアの発案だった。

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 いつも控え目だが、しかし本当に芯の強い、ディエゴとグリセルという2人の素晴らしい子供たちの母親でもあった。難しい仕事を進めるのに、私はどれだけ彼女の世話になったか…残念でしょうがない。すぐに飛んでいきたいが、このコロナのせいで適わない。今誰に聞いても、エドゥアルドの落ち込みが心配という。全く同感で、エドゥアルドには「グロリアは、あなたがタンゴ・ダンス界に君臨し続けることを天から見続けているから元気を出して」と伝えた。グローリアには心から「ありがとう」を繰り返したい…合掌!!!

!Gloria, gracias infinitas! Eduardo, te expreso mi mas sentido pesame !