憎きコロナ!アルゼンチン、ブラジルでの制限措置….

 今回の新型コロナ関連では、実にいろいろなことが起こっている。世界での素早い対応を見ていると、日本が甘いのか、海外が敏感すぎるのか…まぁ、これは命の問題だけに、海外の方が正しいと見るしかない。日本の「専門家」は、コロナとは言っても、普通のインフルエンザとあまり変わりはなく、死に至るのは老人、既往症を持っている患者….と言い、「感染者の数をまともにマスコミに告げさせるより、検査のテンポも遅くしているうちに、若者はコロナ・ウィルスに感染して、抗体を持った人間を多くした方が早く沈静化できる。ほとんどの感染者は、今までのインフルエンザ同程度の感染力で、わずかな老人が重症化するだけ」とでも言いたげな政策ばかりだ。まぁ、世界中の感染者の数字もいい加減だらけ。中国はあの大都市であれだけの惨状を伝えているにもかかわらず、あまりにも感染者が少ないと思われていたが、昨日だったか、「感染者でも症状が出ていないものはカウントされていない」と国民から指摘され、慌ててそれを発表したが、どう考えてもそれでも数字が小さすぎる。日本はといえば、何しろ検査しないのか、させないのか、症状が現れて医者に行っても診てもらえない、何よりPCR検査を受けさせてもらえない、という苦情は結構最初からあった。だから、ある医者はTVでも発表されている数字の10倍はいると考えられる、と堂々と発言した。

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大好きなリオ到着。

ブエノスアイレスに着いて間もないというのに、ブラジルに向けて出発となる。ケチな話だが、ブエノスからブラジルに行く場合、しかもリオ、サンパウロを経由する場合、周遊でチケットをとるのが一番安い。本当はリオ往復の安いのを買って、そこからサンパウロ〜ブエノスと買うか、リオ〜サンパウロの往復を買うのも手なのだが、客人たちの荷物もあるかもしれないからと、この旅程を組んだ。問題はリオ直行がとれずにサンパウロ経由でしかもサンパウロ国際空港グアルーリョスで、トランジットが5時間近くある。ここからは市内に出るのも結構心配。というのは、サンパウロの市内とグアルーリョスを結ぶ高速と言ったら南米でも特筆すべき混み様だから。

朝4時半起きでブエノスアイレスの国内専用のアエロパルケ空港へ。さすがに眠い。しかし、早めに出るとそれだけ空港でのストレスは少ないから…。で約2時間少しでサンパウロへ。サンパウロの空港は当初からターミナルは二つだったが、近年のワールドカップ、オリンピックに向けてターミナル4まで拡張されている。到着したのはターミナル2、そこからリオ往きのアズール航空があるターミナル4まではシャトルバスが運行されているが、他のターミナルとは大分離れている。最近オープンしたてのようですべてが新しい。アズール航空は、アメリカで急成長したジェットブルー航空の元経営者がブラジルの格安航空はまだ高い、と始めた航空会社で、今ブラジルで急成長している格安航空会社。カウンターの応対も良く、10ドルプラスすると少し広めの席にアップグレードできる。4人ともかなりゆったりとした席でリオデジャネイロへ。

それにしても、このグアルーリョス空港が出来たのは1985年。それまでは国際空港と言えばリオのガレオン空港だったが、サンパウロが巨大都市化してブラジルの窓口としてはサンパウロの方がふさわしいと言うことで、このグアルーリョスが建設された。それまでは、まずリオに入り、それからサンパウロに渡るというのが普通だった。現在南米で一番の混みようでもっとも危険、と言われる都心部にあるコンゴーニャス空港は便利だが、やはり今の大型飛行機を受け入れ続けるには無理があった。なにしろ2000メートルに満たない滑走路が2本しかないから。

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さて、リオに到着してひとまず休憩し、ジョイスに紹介されたコーラス・グループと会うことに。リーダーでマネージャー役のアウグストの家へ。本当は今の段階ではまだ、資料を持って帰りたいくらいのものだったのだが、彼が自分お家にみんな集まるから、というので訪問。みんなが集まるからにはアカペラの歌でも…と期待していたが、そうではなくこのグループ、非常に民主的な運営をしているからのよう。紹介してくれたジョイスとも特に面識があるわけでなく、いろいろな音楽家たちが、知らずに自分たちの宣伝をしてくれると喜んでいた。考えてみると、ブラジルのコーラス・グループは、その昔日本にも連れてきたクアルテート・アン・シーや、MPB4,さらにはボカ・リヴリ以来、あまり聞かなかったが、ジョイスによると最近若い新しいグループがたくさん出てきているのだそう。確かにYOUTUBEを見ても、感覚的に新しそうで興味深いグループがたくさんいる。今日のオルヂナリウスはその中でも非常に感性豊かに見える。アウグストは人柄も最高で、非常に正直者。いずれ仕事を一緒にしてみたいと思わせる男だった。彼らはレパートリーについても自分たちで話し合い好きなものを歌うそうで、ボサノヴァはMPBはもちろん、時にはスティーヴィー・ワンダーまで歌ってしまうそう。

この日は、旅の疲れもあって、仕事はここまで。あとはいつものテツも含めて一緒にリオで一番うまいショラスコ屋で肉を。リオで一番うまいとは言っても、人によって意見は様々。味と雰囲気とを考えると昔からマリウスという店が一番有名だが、ここはなにしろ高すぎだ。続いて好きになったんが「ポルカゥン・リオ」だったが、ここも最近経営者が変わって高いだけでうまくなくなったと評判らしい。そこでテツのおすすめは「フォゴ・ダ・シャゥン」という店。

セルタネージャの大スタードゥオが始めた店で、たしかサンパウロからはじめて今ではリオはもちろん、全ブラジルから全北米にまで進出している大ショラスコ・チェーンだ。リオでは、今度オリンピック会場の多いバハ地区には大分前からあったが、今はボタフォーゴのここが一番という。ここはボタフォーゴの海岸沿いの夜景が美しい場所にあって、確かに味は最高。サラダ・バーもまずい寿司や飯類は少なめで、肉に集中できるの良いし、ショハスコの肉の切り方が厚い。どのパーツも確かに美味い。で、とにかくこの日はここまでで終了。

さて、そんなわけさてさ

アサヒアートスクエアで墨田祭り

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この日曜日、弊社とライターの大石さんの企画で「墨田祭り」というのをアサヒアートスクエアで行った。

実は、この企画、弊誌の編集長が、あのアートスクエアで「隅田川アートプロジェクト2015」という企画を募集しているという情報をキャッチしたことから始まった。企画が通った場合は、会場と付帯の音響・照明などは全部無料提供してくれるという素晴らしいもの。しかし、条件としてどんな形であれ、「江戸」の文化と結びついたものが好ましいという。で、編集長が考えたのが、一つは蛇腹文化。アルゼンチンのバンドネオン(蛇腹)を登場させるために、「日本にアコーディオン賀は行ってきたのが江戸時代」という史実をかなり無理して絡ませて、バンドネオンの絡んだ企画。どんなバンドネオンもOKという若い仁詩さんに依頼した。もう一つはもう「祭り」そのもので、ライターの大石始さんと編集長がアイデアを集め、実現することになった。

http://latina.co.jp/matsurisession

まず東京の祭りと言えば、高円寺阿波おどり連協会のの東京天水連。そして、ブラジルのサンバ隊からは、モシダージ・サンバ・システム。そして、日本初のエジプト太鼓のアンサンブルユニット、タブラクワエサ。この3つのゆにっとがこの日のステージに呼ばれた。

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この日は、まずライターで祭り研究家大石始さんの祭り画像コレクションを、司会の山口屋左七さんと花田編集長が聞きながら進めるスタイルでのやや固い始まり。しかし、「旅と祭りの編集プロダクション」大石さんのコレクションに来場者の目は釘付け。

 

 

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トリッパ絶妙の日本公演!!!

昨年からブラジル大使館と進めてきたブラジル企画。最初はもっと壮大なものだったがブラジル政府から許可が出たのが1企画だけとなった。私たちが出していた企画はすべて没となり、このトゥリッパだけが実現したというわけだ。

 

5月末、アルゼンチンでの仕事のついでに、リオで一晩だけこのトゥリッパを取材してきた。正直言って、最初はあの写真とは大分違う体格の良さに戸惑ったが、とにかく歌が上手い、仕草が可愛い、人間が抜群…かなり気に入った。しかも、場所はリオのスタジオRJ。その昔は「邪魔に亜]と呼んでいた店で、エリゼッチやバーデン・パウエルなどを良く聴いたライヴスポットだが、現在はアンテナの高いリオの若者たちの有名スポットに変貌していた。歌は折り紙付きで、現在人気急上昇中の歌手だ。

 

さて、ブラジル大使館の企画では当初はトゥリッパと弟のギタリストだけという話だったが、そこで聴いた公演で、これは本当は絶対に最低5人でやらせた方が良い、と帰国後大使館に訴えた。しかし、予算に限りがあるので3人までにという。で、彼女のステージを盛り上げるにはベース奏者でオールラウンド・プレーヤーのマルシオ・アランチスを加えようと言うことになった。ここまで来て、あとは弊社の船津編集長がすべてを取り仕切って日本ツアーまで頑張ってきた。

 

もともと、この企画には新しくブラジル路線に乗り出したトルコ航空がスポンサーになっていたので、彼女たちはイスタンブール経由でやってきた。ところが、マルシオが途中のイスタンブールでパスポートを紛失。イスタンブールの日本大使館や、こちらの外務省、在日ブラジル大使館との連絡で船津編集長は連中がやってくる前から寝る暇のない忙しさとなった。結局トゥリッパ姉弟が先に、マネージャーとマ留塩が一日遅れでやってきて、なんとか初日の山形公演に間に合うことになった。

10/21山形

10/22東京・八重洲

10/25鎌倉

10/26名古屋

10/27,28東京靑山BOSSA AOYAMA2012

10/29原宿VACANT

というスケジュールだったが、BOSSA AOYAMAは無料イベントで、原宿VACANTは有料と言うおかしな形になってしまった。当然有料の原宿VACANT野公園は苦境に。しかし、船津編集長をはじめ、関係者の努力のかいがあって、最終公演も多いに盛り上がった。

 

もともとグラフィック・デザイナーだったトゥリッパだが、歌は滅法上手い。本当のところリオでの公演では良いところになると聴衆が先に歌い出してしまうので、ぴんと来ない部分もあったのだが、東京公演では会場が小さいのと、聴衆が先に歌うことがなかったので、実力が100%発揮された素晴らしいステージになった。ベースのマルシオを入れたことは間違いなかった。予想以上の活躍をしてくれた。

 ブラジルという国は本当に凄い国だ。今、ブラジルの現地通貨レアルが昔に比べると非常に高いから、彼らが昔通りの出演料で海外公演をやるのは非常に難しくなっている。今ブラジル人たちの海外公演は圧倒的に減っているはず。ブラジル国内の方が圧倒的に稼げるから。トリッパたちが日本のブラジル外交官の意欲に共感して日本に来てくれたのは非常にラッキーだった。

私も今回は何もしてあげられなかったので、一晩食事に誘うことにした。で、たまにはシュラスコでも?と聞いたら、和食が良い、という。「あなたたちがブラジルに行って和食食べたい?」と宣う。確かに。で、恵比寿のジルベルト・ジルも大喜びした寿司屋に。4人とも本当に良い人たちだった。これがきっかけでブラジル音楽がひと盛り上がり、と言うにはあまりに小さなイベントだったが、こういった地井さん努力に積み重ねが大事だ。船津編集長も一生懸命頑張った他の社員も、関係者一同に敬意を表したいと思う。

 といという

 

 

プラッサ11、30周年+1

プラッサ・オンゼが開店30周年+1という。今はもうあの大声で笑い合った仲間もあまり見かけなくなって、足もついつい遠のいてしまうことが多いが、わがラティーナ誌とは切っても切れない関係の店だ。

プラッサ・オンゼは東京・青山3丁目の交差点から少し渋谷寄りに進んで歩道橋の麓を少しだけ右に入ったところにあるもともとはブラジルとサンバの店である。日本のサンバ、ブラジル音楽のムーブメントはこの店から生まれたと行って過言ではない。そして、この店を始めたのが故浅田英了氏(本名・英夫)。あのKIMIJIMAブランドが全盛の頃のカメラマンとして、またモナコ王室御用達ブランド、ヴァン・クリーフのカメラマンとしても活躍した名写真家だが、それもひとつの顔。少年時代をブラジルで過ごし、70年から日本に住んで、当時は殆ど誰にも聴かれなかったブラジル音楽を愛し、会う人ごとにその素晴らしさを語り、日本でブラジル音楽の芽を育て、青山に今の「プラッサ・オンゼ」を開店しながらさらにブラジル音楽を花開かせてくれた恩人である。 “プラッサ11、30周年+1” の続きを読む