ブエノス到着、いろいろなニュース

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Hotel The Brick

マナグアからマイアミ。マイアミでの入国もESTAのおかげで楽にできてマイアミではラウンジでゆっくりできた。で、ブエノスへの機中もほとんどぐっすり眠れたおかげでブエノスには順調に到着。で、以前泊まって気に入っていた予約していたオベリスコのすぐ近くのホテルNovotelに入ったが、ネットがどうもマックに相性が悪くうまくいかない。当然文句を言ったら、おなじチェーンの最高級のホテルHotel the Brick BsAsを用意された。昔のシーザーズ・パークで超高級のところ。文句は言ってみるものだ。

 

President Obama dances the tango during a state dinner hosted by Argentina's President Mauricio Macri in Buenos Aires. REUTERS/Carlos Barria
President Obama dances the tango during a state dinner hosted by Argentina’s President Mauricio Macri in Buenos Aires. REUTERS/Carlos Barria

ブエノスアイレスは、オバマがこの間来たようにUSAとの関係も大きく改善したから今後は経済も良くなるだろうが、まだ前政権の失政の影響で給料上がらず、インフレが続いてまだまだ成果が現れていない。政府の読みとしては6月頃からはインフレも収まるからそれまで我慢と言うことらしい。が世相は今のところ盗難事件が勃発するなどかなり悪化している。親しくしているロンバルディ大臣とは4日にアポイントが取れ、会うことになった。その辺の事情もじっくり聞いてみたい。日本からもみじ饅頭と日本酒うぃ持ってきてやったから楽しい再会になりそうだ。彼は今度日本にやってくるミチェッティ副大統領とはかなり親しいので来日するかと思っていたが、今回は一緒に行かないとか。

 

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オラシオ・フェレール像とガブリエル・ソリア会長

で、一休みしてパソコンをいじり始めたら嬉しいニュース。オラシオ・フェレール亡き後を継いで国立タンゴ・アカデミーの会長に就任しているガブリエル・ソリア氏は、弊誌ラティーナにも連載してもらっているが、その彼が今度は毎年8月に開催されているタンゴ・フェスティバルのアーティスト・ディレクター兼世界遺産タンゴの街過去、現在、未来のディレクターに就任することになった。国立タンゴ・アカデミーには年齢的にオラシオ・フェレールに近い仲間もたくさんいるが、ガブリエルは若くしてフェレールが副会長に指名していたとおり、タンゴ全体へ知識も豊富だし、なにしろ歴史をビデオやCDに収録して残すなど行動力も抜群で誰からの信頼も篤い。アカデミーは国立の名はついているものの、実は国からの援助は少なく、フェレールが印税その他をつぎ込んで経営してきたのが実情。だから、フェレール亡き後、ガブリエルは相当な緊張感を持って博物館の整理をしたり、コンサートを主催したりと忙しく動いてアカデミーを支えている。今までのフェスティバルでも彼の知識やアカデミーにある展示物、更に彼自身の講演など惜しみもなく持つものすべてをつぎ込んでくれていた。昨年で市長も代わり、体制も一変した今、じつはこのアート・ディレクターの職には何人もの人間たちが手を挙げていた。私も関係者から意見を求められたが、彼の名前が出てきたから、もちろん「彼の他にない」と薦めてきた。私もいろいろなタンゴ人たちと付き合って13062288_1174494799251175_2319055390018636358_nきただけに、アーティストの裏の顔も結構知っているから、そんな情報も提供していた。今回は、そんなこともあって少し前からこの人事を聞いていたが、まだ最終決定ではないから、と伏せるように言われていた。フェスティバルのディレクションというのは、どうやっても常に反対勢力が生まれる非常にストレスの多い仕事だ。彼は、しかし、あの万人を惹きつける柔和な顔とは別に、実は非常に意志の強い人間だ。ある意味、ブエノスアイレスのタンゴ界にとってはアカデミー以上の影響力のある仕事かもしれない。その位置に彼が就いたことは本当に嬉しいニュースだ。今回も必ず会って、祝いの言葉でもかけて行こうと思う。

 

_DSC9046弊社から、宇戸がGWを利用して2日前からこのブエノスに来ている。毎月ブエノス担当で雑誌の編集をしていて、ブエノスの音楽情報を直接に知りたいという思いは強かった男で、到着すぐから精力的に働いているよう。まぁ、短い滞在ではやることに限りはあると思うが、学生時代1年間過ぎSたと頃でもあるし、メキシコ大使館に勤務していた時代に、あのオリンピック決定の発表の場にはメキシコから応援を任されてやってきていた人間だ。ブエノスアイレスには今まで何人かの社員も連れてきたが、彼の場合来てからほとんどまずに(いろいろなジャンルの)音楽人と会っているよう。私も若い時はかなり動き回った方だが、彼のこの行動力もなかなかと思う。一つ一つの動きが必ずや肉となっていく。この後はウルグアイに潜入して帰るようだが、頑張れ!宇戸!!!

 

_DSC9048 さて、一応老体なので、とりあえず一眠りして夜のブエノスに出掛けてみた。最初はとりあえずホテルの近くをと思い歩き始めた。事前に調べてきた気温よりもかなり寒い。南半球はこれから冬に向かっていて、日本で調べた時には、ちょうど現在の日本と同程度だったからそれより少し厚着の用意はしてきたのだが、それよりもずっと寒い。この前のニカラグアは最低気温でも23度前後、最高気温は軽く30度を超える。美しく、しかも文化的な街レオンをまた訪れたかったが、ニカラグアでも今が最も暑い地方で毎日40度を超す気温になっているから、みんなに今は辞めた方が良いとアドバイスされ断念したほど。結局、ホテルに戻り車で繁華街へ出掛けることにした。

_DSC9049そして、ブエノスアイレスは、今まさに冬に向かう。昨秋あたりから寒さが本格化したようで、最低4度、最高17度。夜街に出掛けた頃は、ほとんどの人が完全に冬支度だった。しかも、街全体はかなりおとなしめに見えていたが、コリエンテス通りとモンテビデオ通りあたりのパセオはもの凄い人だかり、周りのレストランも列ができるほどの混みようだった。恐らくこことかパレルモあたり、さらにプエルト・マデーロあたりは人でごった返していたに違いない。かなり寒さ対策をしてきたはずだが、少し足りなかったかも、と反省中。

ニカラグア最終日、カティアの活動

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ドゥオ・グアルダバランコ

大きな間違いをしていた。カティア・カルデナルは一度も日本に来てなかった。弟の故サルバドールと「ドゥオ・グアルダバランコ」を組んでいて、随分昔に日本のどこか小さいところで演奏した、と聞いていた。10年以上前、サルバドールの家(マナグアの郊外の本当に山の中の自然の中で、質素な家で音楽と絵を描いて暮らしていた)で聞いた話で、日本には2人で行ったというので、勝手に弟とのドゥオで行ったのと勘違いしていた。行ったのは弟のサルバドールで、彼女は行く話は何度もあったのだが、サルバドールが日本に行った時は、ちょうど長女を出産する時にぶつかっていけなかったのらしい。だから、今回は凄く気合いが入っている。

 

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ドゥオ・グアルダバランコ財団のシンボルマーク
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カティア・カルデナル

サルバドールとカティアは「ドゥオ・グアルダバランコ財団」を結成した。目的は文化活動、特にニカラグアの音楽活動、それも新しい音楽家を育てながらニカラグアの音楽産業を活発にすることを無償で提供することという。カティアたちはこの財団の活動として、貧民街の人々に瓶とかプラスティックとかの廃材を集めさせてそれを彼らの資金にする、そのプロモーションのためにかのや仲間がその貧民街で演奏をする、みたいな活動を実際に行っている。実は今回の滞在の最終日に、こ

DSC_7908Xの財団が提唱してニカラグア国内で活動する企業、今回はモビスターと言う電話会社(スペイン資本)やミネラル・ウォーターの会社、新聞社等の強力を得て、自然保護と文化活動の促進を目的に5月15日から数週間キャンペーンを繰り広げるための決起大会があった。たくさんのメディアや賛同した会社の担当者が記者会見を開くイベントだった。私も興味があったので参加してみたが、なかなかこの国らしい、美しい集まりだった。

最初にドゥオ・グアルダバランコ財団を代表してカティアが挨拶。この国の惨状を黙ってみているだけでは何も始まらない、行動しましょう!と訴えた。このキャンペーンはモビスターのコマーシャルでも使われて、カティアは無償でキャンペーン・ソングを歌っているが、その録音も披露された。キャンペーンのコピーは「大地があなたに叫んでいる!応えよう!」というものだった。例えばペットボトル(このニカラグアではスーパーでもペットボトルや買い物袋を使わなければ出口で金銭と引き替えてくれるシステムらしい)やプラスティックがどう

_DSC9016Xやって再利用されるかを、実際にその工場に子供たちを集めて見学させる。携帯電話の廃品はどう分別されて再利用されているかも工場で見学させるetc.。そして企業からステージ設営の費用を拠出させて、その工場の近くでカティアや賛同アーティストたちが無料で出演するコンサート・イベントも全国規模で行うらしい。ドゥオ・グアルダバランコがいかにこの国で立場を築いてきたか、こんな活動を見ただけでも理解できた気がした。もちろん、それにはサルバドールの身体を張った生活ぶりが人を動かしたんだとも思う。この企画を動かしている人たちの目が本当に美しかったのが、どこかの国と違って印象的だった。

 

_DSC9034Xで、最後の夜はカティア、アルバロと一緒に食事をすることにした。私の泊まっているホテルにはニカラグア一という日本食レストラン「京都」がある。そこで日本酒と寿司と天ぷらで最後の夜を楽しんだ。彼女のファミリーに神戸に住んでいたことのある人がいて、いつも日本のことをサルバドールと一緒に自慢されていた、とか。それもあって、日本への思いはとてつもなく大きい。今の日本がそれに相応しいのかどうかは知らないが、できるだけ良いところを見てもらいたい…。ステージのおおよその構成まで話は進んだが、かなり面白いことができそうになってきた。

 

で、今日は朝7時半にホテルを出て空港に。思いの外順調にチェックインも済んで、今ラウンジでゆっくりしている。これからマイアミ経由でブエノスに向かうが、まだ頭がアルゼンチンに向いていない。頑張らなきゃ。

 

 

 

 

カティアとの打ち合わせ

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マナグアの街中で

昨年ここにやってきた時にはベネズエラのカラカスから直接(といってもパナマ経由だが)マナグアに入った。カラカスと言えば、今では世界でももっとも治安に問題があると言われている都市で、緊張してから入ってきたからかなんだか安堵した気分になっていたが、とんでもない、このマナグアはカラカスがああなるずっと前から危険な街だ。大体、昼間でも道を歩いている人間が少ない。強盗の話もよく聞く。それで、昨夜はマネージャーのアルバロの車で夜のマナグアを散策することにした。時間が時間だったのでアルバロの奥さんも招待して食事もすることにした。

 

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命の木

とは言え、このマナグア、1972年の大地震で街はほぼ壊滅的な打撃を受けて以来復興は遅々としてあまり進まない。でも、今のオルテガ大統領(あの養女へのセクハラで有名にもなった)が政権に復帰してなかなかよくやっていると言われている。で、ネットでマナグアの街の観光で一番最初に出てきたサルバドール・アジェンデ港という、ベイ・エリア開発地区に行くことに。マナグアの街には至る所に「命の木」(アルボル・デ・ラ・ビーダ)と呼ばれるオブジェが建っている。特に夜になるとその木にカラフルな色が入るから美しい。聞くところによると、オルテガの今の夫人で、情報戦伝送をつとめている詩人のロサリオ・ムリージョの発案でマナグアの街のエンブレムとして始めたのだそう。マナグアと言わず、ニカラグアはエネルギーのインフラが極端に遅れているから暗い。そこで「光」の有り難みを国民に訴えようとでもしたのか、とにかく目立つ。特に最近開発されたアジェンデ港に近づくとますますオブジェの数が増えてくる。中には同胞だったベネズエラの故チャベス大統領のと命の木が一緒に輝いているものも現れた。ベネズエラ、ニカラグア、エクアドル、ボリビア、ブラジルの左派政権は確かにタッグを組んで援助し合っているからなのだが、エネルギー不足の国民には奇妙にしか写らないのではないか、と感じたが、アルバロに言わせると国民の大半がこの「木」を快く思っていないのだそうだ。

 

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マナグア湖畔
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アジェンデ港のカテドラルのミニチュア
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マナグア旧市街のミニチュア
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ルベン・ダリオの博物館にある絵
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ルベンダリオ博物館の時計

さて、サルバドール・アジェンデ港。肝心のチリでは左派系の政党支持者以外にはあまり騒がれなくなっているアジェンデだが、こうした左派の国々では圧倒的に人気がある。で、アジェンデよりも選ぶべきアイコンがたくさんありそうなのに、この名前がついた新開発地域へ。この地域は、地震前には市街地の中心だったらしいが、倒壊しなかったのは今もあるルベン・ダリオ国立劇場と、旧カテドラル(ここは倒壊の恐れがあるとかで現在は入場を制限されている)、あとはわずかな建物だけ。その地震でこのマナグア湖の岸に膨大に積み上げられた廃棄物を埋め立てて作られたのが新しいマレコン地区のこのアジェンデ港という訳 らしい。アルバロがまず連れていってくれたのはアジェンデ港の中の旧市街をそのままミニチュアにして作って展示してあるところ。お世辞にも欲でいているとは思えないが、あの地震を体験した老人たちはここにやってきてきて昔を懐かしみ、涙を流す人さえいるという。日本では、こうした被災者たちの心に訴える復興作業はあまり耳にしないが、マナグアではこうしてミニチュアにして記憶を残しているわけだ。アルバロが面白い話をしてくれた。このカテドラルもルベン・ダリオ劇場も、被災しなかった建物は全部日本の技術で建てられた建造物だけとか。劇場に日本の援助があったのは聴いたことがあるが、その他の真意は定かではない。
次に、このニカラグアを代表する詩人ルベン・ダリオのレオン市の生家付近を忠実に再現した記念館。ルベン・ダリオは、19世紀のラテン・アメリカで最も偉大な詩人と称される。革命の英雄アウグスト・サンディーノと並んで国民的な英雄となっている。しかし、ここから車で1時間少ししか離れていないあの美しいレオンに本物があるのに何故?との疑問も湧くけれど、まぁ大統領夫人の発案だから。そして、いよいよ日本のベイ・エリアの再開発に似たなんだか安っぽい(世界の若者がこんな薄っぺらな街作りに騙されているかと思うと可哀想としか言いようがない)、レストランやバーが建ち並ぶ地区に。道端にプラード博物館とあるから何かと思いきや、プラードのベラスケス等の作品の写真を展示しあるだけ。どうせ金持ちの息子たちが粋がって遊んであるだけかと思いきや、結構地元の市民や観光客には親しまれてきているようだ。

この港にアルバロ夫人がやってきていよいよ食事へ。何かニカラグア的なものと言ったが、アルバロが「まだ行ったことがないペルー・レストランがあって美味いらしい」というのでそこに向かった。La Terraza Peruanaという店。セビーチェとか、パエーリャ風のものを食した。美味いが、何故マナグアでペルーなのか…。そういえば、マナグアにやってきて入ったレストラン、わがホテルの中にあるニカラグア一の日本食堂「京都」と、最高のステーキ・ハウスという「ドン・カンデイード」と、ニカラグア料理のレストランにまだ入っていないことに気がついたが、後の祭りだ。

 

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カティア・カルデナル

翌日、朝10時、ホテルにカティアがやってきてくれた。「前回の撮影で本田がミュージシャンのレベルが低いと怒っていたと言うから最高のを用意した」とラス・クネータを選んだことを誇ってきた。しかし、その通り、ここまで一気にレベルが上がるんだ、と感心する。カティアと言えばニカラグアの国民的歌手だから、選ぼうと思えば誰でも選べるらしい。だったら、前回から揃えてくれと言いたいところだが…。カティアはノルウェー人と結婚して2度ほどノルウェーに住んだことがある。その時にノルウェーの民謡を歌って録音したところ年間のベストセラーになったことがあるらしくノルウェーでも有名人だ。その後、2007年にニカラグアのフォルクローレを録音したが、その時に選んだのがこのラ・クネータの面々だったそう。彼らはその後、すぐにクネータを結成してサンフランシスコへ。そして知り合ったのが昨日も書いたグレッグ・ランドゥ。彼はマリンバを駆使したり、ラップが飛び出したり、クンビア, ロック, スカ, ラップ, ジャズ, ルンバ・コンゴレーニャ, メレンゲ, パンク, レゲエ, ファンク等の要素をごちゃ混ぜにした、ととにかく彼らのユニークで面を最大限に破棄させたアルバムを創り上げた。これが2016年のグラミーにノミネートされた「モンドンゴ」だ。今や世界はもちろん日本のアンテナの高い連中から既に愛されている若いグループ。メンバーは:

Ernesto Matute López (batería y timbales), Omar El Profesor Suazo (guitarra), César El Puma Rodríguez (teclados), Carlos El FrijolGuillén (voz) y Augusto El Negro Mejía (bajo).

 ただ、ドラムのエルネストは今はクネータを抜けている。あのニカラグア解放戦線(FSLN)のテーマ・ソング「サンディニスタ賛歌」の作者で世界的にも知られているカルロス・メヒア・ゴドイの甥も二人入っている。まぁ、ニカラグアの代表的な血が詰まった連中によるステージができあがりそう。ヨーロッパ公演中の彼らと細部まで話していよいよ実現の運びとなった。楽しみである。

 

ところで、日本から悲しいニュースが届いた。あの青山のCAYでオープン当時から東京の新しい音楽ムーブメントを牽引してきた宮川賢左衛門、通商ケンさんが亡くなったらしい。亡くなったらしいとしかわからないが、一体何が起こったんだろうか?音楽家だけでなく、音楽の新しいムーブメント作りに貢献してきた人たちもいなくなるのはどうにも寂しい。誰かもっと情報がある人、是非送ってください。

 

ニカラグアでの収穫

_DSC9009X24時間のつらい旅を終えてマナグアに辿り着いたが、とりあえずホテルに入ってビールを一杯。そのままよく寝るはずが年齢が重なるとなかなかそうも行かない。熟睡したと思って起きるとまだ3時間ほどしか寝ていない。で、はっきりと目覚めてしまう。恐ろしい「時差」である。しかし、こちらのマネージャーとは夕方3時の待ち合わせなので、ゆっくり資料の整理やら写真の整理で過ごすことになった。一応今回の焦点はカティアのバックバンドの決定だ。じつは昨年ここにやってきて予定メンバーの収録をしたのだが、これがかなり酷かった。別に彼らに責任があるとは言わない。というのは、もう長く中南米諸国とつきあってきて、招聘_DSC9031Xする2年も前から、こちらの要求にあったメンバーを決めて、集合写真を撮って、しかも録画まですると言うこと自体が彼らにはあり得ない話だからだ。今までいろいろな国でいろいろな体験をしてきた。例えば、キューバからシエラ・マエストラを招聘する1年前、メンバーは決まっていたが、管をもっと良いのにした。が、集合時間になってもそのトランペットがやってこない。で、みんなで探すがどこにもいない。次に女性歌手は私が大好きだったシオマラ・ラウガーを指名したのだが、これがまた現れない。しびれを切らせて私がレンタカーで家まで迎えに。と、シオマラは子供の手を引いて家の前でのんびりしているではないか。ああその話聞いていたけど、まだまだ先の話だと思ってた、と。で、車の中に無理矢理拉致して会場に連れてくるとようやくトランペットの男も現れていた。で、今度は最初から来ていた数人が次の仕事がある、と。結局撮影時間は30分にも満たなかった。それでもまだ良い方だったりする。あるときはどうしてもメンバーが集まらず、そこにいたマネージャー氏に、らしい洋服を着せてとりあえず撮影し、後で変更になったことにしたことだってある。今だったらフォトショップという素晴らしいものがあるから顔だけ取り替えることもできるが、当時はどうしようもない。だから事前のチラシやポスターと来日メンバーの顔が違うなんて事もよくあったのである。しかし、そうしてどうしようもないことをやらかす音楽家に限って素晴らしかったりする。困ったものだ。世の中、スポンサーを中心に世界が廻っているわけではない、と大声で叫びたいが、日本という国では通用しない。

 

前回のニカラグアも実はそれに近いもので、まだ時間がありすぎて正しいメンバーに声はかけられない、というのが事実だったと想像する。だって、カティアの娘は素晴らしい音楽だったが、息子はまだ学生のとてもプロとは言えないものだったし、他のコーラスもとてもじゃないが、と言う連中だったからだ。で、最後の打ち合わせで、私は思いきりマネージャーを叱りつけた。日本から何度も何度も確認したことはどこに消えたんだ、大体日本に気があるのかどうか。他にもいろいろ思いの丈をぶつけてやった珍しいケースだった。

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それで日本に帰ってからも何度か連絡をしているうちに、カティアが本腰を入れ始めた。今回ここにやってくる数週間前の話である。これが、本当か、彼らと一緒にできるのか?と言う驚くようなメンバだった。今年度のグラミー賞ラテン・ロック、アーバン、オルタナティヴ部門の最優秀アルバムにノミネートされているニカラグアでは今乗りに乗っているグループだったからだ。このグループとステージを分け合うのはよいが、どうやって一緒にやるのか、と言うのが問題。しかし、彼らはニカラグアの一番の人気歌手カティアとは実は何度かステージも一緒になっている上、カティアのギタリストはそのグループの重要メンバーだったのだ。これは話が通じるかも、と言うのが今回早くやってきた理由だ。

 

グループの名前は「ラ・クネータ」。こちらで流行っているクンビアを軸にした非常に面白いグループだ。その昔、エクアドルから女性歌手をつれてきたときに、ちょうどキューバからエクアドルに亡命してきていたオマール・ソーサがいて、彼をキーボード兼ピアノに据えたことがあるが、あのオマールとも親交があるグレッグ・ランドゥがプロデュースしているCDがth今回のグラミーにノミネートされた。マリンバを駆使したり、ラップが飛び出したりととにかくユニークで世界のアンテナの高い連中から既に愛されている若いグループだ。で、彼らはなかなかマルチな音楽家たちで、カティアの伴奏もかなりできているという。今回はその辺の確認をした上での交渉である。グループの中にはあのニカラグア解放戦線(FSLN)のテーマ・ソング「サンディニスタ賛歌」の作者で世界的にも知られているカルロス・メヒア・ゴドイのファミリー兄弟もいる。これが実現すれば、現在のニカラグアを代表する女性歌手と、今乗りに乗っている注目グループとの共演と言うことになる。あとは、この二つの個性をどうやって一つのステージで花咲かせるか、だ。しかし、まずは良い音楽家たちが集まることが何より大事だ。しかも本人たちがそれを希望しているわけだから尚更だ。

 

今日マネージャとの話の段階では非常に好感触を得ている。あとはカティアとの明日の会談次第。楽しみなような不安なような、しかしやるしかない、の気分である。

 

今年2度目の中南米への旅

DSC_4167 (2)この間、ポルトガルに突然行ってきたが、その前から予定していた中南米への旅に出掛けてきた。今年秋に行われるベネズエラのグアコに続いて来年は予定がぎっしり入ってきた。まず、来春のタンゴ。オラシオ・ロモのセステートを中心に今年のパブロ・エスティガリビアを上回るステージを仕上げたい。で、それが終わると今度は一昨年成功させたブラジルのスルルー・ナ・ホーダ台湾公演。昨年のタンゴの台湾公演が大成功に終わって、次に自信作は?と聞かれてスルルーを推してきたのだが、今年は台湾の都合でひょっとしたら秋にずれるかもと言う事態になっている。で、それが終わると、この間急遽決まったポルトガルのファド、そして昨年から決まっていたニカラグアの企画だ。ただ、ニカラグアだけは前回で女性歌手だけは決まっているものの、バックはまったく未定のままだった。何度か連絡取り合ううちに、最近になってなかなか良いグループが現れてきた。だから、すぐにでも来てまとめたかったのだが、ポルトガルの仕事が入ってここまで伸びてしまったというわけ。

 

さて、中米はその昔、もう10年以上も前に「中米4ヶ国」を一緒にしたフェスティバルをやった時、それからその後のカリブ企画でハイチの企画を固めるのにハイチやマイアミを何度も往復して以来。最もカリブ企画ではジャマイカやキューバも何度も行っては固めたが。いずれにしても中米とかカリブというとすべてが近くにあると思われがちだが、その数カ国を一度に回るとなると実はそん簡単ではない。航空券をうまく買わないととてつもなく高くなる。もっともマイレージも価格も考えなくて良ければ別だが。

それにしても中米4ヶ国企画の時は当初は何一つ候補もないところから始めたから大変だった。日本の「よく知る、詳しい」人たちの意見もほとんどが現状にあっていないから当てにはならない。コスタリカだけは現地入りして音楽関係者に企画意図を伝えると意外にすぐに固まってきたが、このニカラグアでは日本大使館にいた音楽好きの女性に案内されている中で決まっていった。そしてその女性歌手から噂を聞いて訪れたホンジュラスではギジェルモ・アンダーソンという優れた歌手グループに出会うことができた。ここまで結果だけを書くとたいしたこともなさそうだが、南米のアルゼンチン、ブラジルの大きな企画を詰めながらの作業だったから結構大変だった。特にパナマはまったく該当アーティストに出会えず諦めかけたらたまたまマイアミで活躍する連中に出会えて、思い切り格好がついたのだが(パナマ大使が日本のそのステージを聴いて我が国にこんな素晴らしいグループがいたのか?と驚いた)、さてまとまって予算の話になると中米の小国から招聘するのにさほど経費はかからない、と信じられない予算を押しつけられて大奮闘した記憶がある。で、それだけならまだしも、今度はその中から1ヶ国を削って欲しいとの要望。スポンサーというものは企画の思い入れに関しては我々とはまったく違っていて、要するに知らないジャンル=たいしたことはない、となる。日本の音楽に携わっている会社でさえそんなものだから、世界から「日本の民度か}と言われても仕方がないところに我々は住んでいる。一番困るのはスポンサーを連れて行って、似合わない発言をされた時。アーティストとの信頼関係は、自分がどんな音楽に興味を持ってやってきたか、どうして貴女を絵乱舞事になったのか、など結構デリケートなことがすべてを決める。あまり目上目線で話をすると一巻の終わりと言うことも多いからだ。

 

_DSC8942という流れで、せっかく決めたのに、1ヵ国だけ外さざるを得なかったのがこのニカラグアだった。女性歌手の名はカティア・カルデナル。

Katia Cardenal was born in Nicaragua in 1963. She became a fan of popular music at an early age, singing in the chorus at Managua’s El Colegio Teresiano chorus. She began to perform in public with her brother, Salvador, when they were just 16. They called themselves the Duo Guardabarranco, after the national bird of Nicaragua. It did not take long for her fresh harmonies, original poetry, and melodic songs to gain popularity. She was not only recognized by people in her country, but also internationally by the supporters of Movimiento de la Nueva Canción Latinoamericana. With only a few years of experience, she began to tour the Americas and Europe. Amidst her other work, Katia also graduated as a musical educator from the Escuela de Música de Managua in 1984. From 1984-94 she worked as a flute and solfa teacher for kids and adolescents in different schools. Since January 1997, she has strengthened her solo career and moved to Europe. She has released nine solo albums, which represented different stages of her career. She has explored new topics and rhythms with musicians from NorwayNicaraguaSweden, but has always remained faithful to the songs that inspired her two decades ago. In 2004, she started her own record label called Moka Discos in Nicaragua. Currently, she still gives concerts and continues doing her songs, her brother Salvador Cardenal’s songs, and those of other Hispanic and Scandinavian composers. She lives with her husband and four kids in both Nicaragua and Norway. During her career she has performed in the United StatesSpainGermanyDenmarkNorwaySwedenCzechoslovakiaCubaRussiaPanamaEcuadorMexicoCosta RicaHondurasSwitzerlandCanadaChile, and others.

 

10数年前、彼女を訪ねた時には弟のサルバドールとドゥオ・グアルダバランコというグループで活動中だったが、そのサルバドールの家に招待されて驚いた。本当に自然の中の掘っ立て小屋で、弟は得意の絵をかき、彼女と歌い、料理をし、本当に好きなことだけをやる生活を続けているのだった。

 

まぁ、この辺の話はこれからもすることにして…。今回はそのドゥオのひとり、弟のサルバドールは亡くなっている。

自分のラティーナ人生の終判にどうしてもやっておきたかったのがベネズエラのグアコと、このニカラグアのカティアだった。

 

久しぶりのアメリカン航空でニカラグア入りする。アメリカン航空は昔から中米・カリブには強いのでこの航空会社をよく使うようになったのだが、中米入りして、次の国に繋げるにはマイアミを経由するしかない事が多い。ただ、日本を午前中に出ると、ベネズエラにしてもニカラグアにしてもその日のうちに辿り着ける。もちろん時差があるから。で、月曜日の朝10時40分の飛行機で、無料アップグレードをするために8時少し前に成田へ。しかし、カウンターは2時間半前に開く。で、一番最初にカウンターに行って順調に進めていたが、なんとESTAが切れているではないか。早速ネットでESTAを申し込む。今は実に簡単に承認されることになっていてセーフだった。この騒動ですっかり疲れ切って機内は爆睡。今度はダラスからマイアミ、少し遅れているらしい。で、搭乗してすぐに一眠り。2時間くらい寝ただろうか、目が覚めるとまだ出発していない。これはマイアミで4時間ほどあったトランジットの時間がぎりぎりという時間だ。尋ねると「大丈夫。出発時刻1時間前に到着するから」とそっけない。本当に一時間前に到着したが、ターミナルが近ければ間に合うくらいの話。実際ゲートが近かったから良かったが….。マナグアに着いた時にはもうクタクタ。日本を出てからほぼ24時間で荷物も無事到着。これならマイアミで一泊しておけばよかった。何度旅を重ねても日々勉強である。