プラッサ11、30周年+1

プラッサ・オンゼが開店30周年+1という。今はもうあの大声で笑い合った仲間もあまり見かけなくなって、足もついつい遠のいてしまうことが多いが、わがラティーナ誌とは切っても切れない関係の店だ。

プラッサ・オンゼは東京・青山3丁目の交差点から少し渋谷寄りに進んで歩道橋の麓を少しだけ右に入ったところにあるもともとはブラジルとサンバの店である。日本のサンバ、ブラジル音楽のムーブメントはこの店から生まれたと行って過言ではない。そして、この店を始めたのが故浅田英了氏(本名・英夫)。あのKIMIJIMAブランドが全盛の頃のカメラマンとして、またモナコ王室御用達ブランド、ヴァン・クリーフのカメラマンとしても活躍した名写真家だが、それもひとつの顔。少年時代をブラジルで過ごし、70年から日本に住んで、当時は殆ど誰にも聴かれなかったブラジル音楽を愛し、会う人ごとにその素晴らしさを語り、日本でブラジル音楽の芽を育て、青山に今の「プラッサ・オンゼ」を開店しながらさらにブラジル音楽を花開かせてくれた恩人である。

浅田英了氏は1961年、13才の時に家族と一緒にブラジルに渡った。当時の仲間の一人が今、サンパウロの日本人街で「かぶら」を経営している頑固親父の「さとし」だが、彼らとバンドを組んでいたという話を聴かされたことがある。彼の音楽の原点だろう。ブラジルではすでに写真も始めていて、たまたま「サンバ・サンバ・ブラジル」の撮影に来ていた日本写真界の大御所、故三木惇氏のホテルを訪ねて知り合いになる。
1970年、日本にやってきて三木氏の門を叩く。3年後にはフリー・カメラマンとして活動をはじめ、またその3年後には個人事務所アブリューを開設。

筆者が浅田氏と知り合ったのはちょうど弊誌がブラジル音楽を手がけはじめた78年のことだ。会ってすぐに気があってその夜、早速恵比寿駅前の伝説になってしまった屋台「由起子」で朝まで飲み明かすことになった。はっきり言って彼の写真はこんな貧乏雑誌が使うには立派すぎたが、朝方になって「もういいよ、ブラジル音楽のためなら金はいらない」と言い放ってくれた。当時といえば、その数年前まで私が所属していたレコード会社だってセールスと言えば全国で300枚なんて悲惨な数字を見るのさえ珍しくなかった時代だ。ブラジル愛に満ちた浅田氏の出現は、まさにラティーナにとっては勇気百倍だった。

80年暮れ、嬉しいプラッサ・オンゼの開店。演奏していたのは、あの小野リサの最初のディレクターだった森光男氏をはじめ、仲間のバンドだった。デザイン事務所を始めていた倉垣氏…いかにも青山っぽい,洒落たブラジル音楽の店のオープンだった。

プラッサはその後は,「オパ」を始めプロのミュージシャンに支えられて上手くいっているように見えたのだが、開店してから3年くらい経ったある日、暗い顔で店を閉めたいと言いに来たことがある。写真の稼ぎでやり続けているが経費が尋常ではなく続けられない、というのだ。ブラジル・ムーブメントをこの店から発進していた筆者は当然「もう少し待って様子を…」と懇願したが、彼はかなり深刻だった。それが3月の末。ところがすぐに奇跡が起きた。4月に入ってから、突然客がひっきりなしに来るようになったのだ。原因は未だにわからない。俺たち二人で話すとこういうことが起きるもの、と他愛なく笑いあった。

それ以来ブラジルはもちろん、キューバ、アルゼンチン、メキシコと彼とは何度も一緒に取材旅行を重ねた。一度、彼はちょうど東京でのあるブラジル音楽の公演で当時の厚生年金会館に来る途中、心筋梗塞で信濃町の慶応病院に入院したことがあった。その後はもう一緒に海外は行けないと思っていたのだが、医者の許可が出て、その後もメキシコ、キューバの旅行を実現した。続いてアルゼンチンで「タンゴ・ポル・ドス」の取材に向かった時のこと。信じられない事だが、急に相手のスケジュール変更で、アルゼンチンからフロリダのオーランドに向かうことになった。その機上、ちょうどブラジル上空辺りで心筋梗塞を再発、彼は帰らぬ人となった。自分が誘っていなければ….その思いは今も消えないが、すべてのことを笑い飛ばしてきた当時の我々だ、行くのが当たり前だった。

浅田氏の遺体を乗せて到着したマイアミから、電話をした。最初に受けたのは一人娘の花梨だった。何度も何度もこの娘の話で夜を徹したこともあるくらい子煩悩な男だった。次にクラウヂアと連絡が取れた。彼女は我々悪友の仕業に寛大な人だったが、彼の亡くなる1年前だったか、遂に切れて英了氏に最後通牒を突きつけ、彼が人前で大泣きしたのを知っている。だから未だに怒っているものとばかり思っていたが,彼女のその後の行動は逆だった。今まで勤めていた銀行を潔く辞め、浅田氏が築いてきたいくつもの事務所をしっかりとたたみ、彼が一番愛した「プラッサ・オンゼ」を継いでいく決意をしたのである。
実は70年、浅田氏が日本にやってきたのは、写真をやるというのはある意味口実で、美人のクラウヂアが当時大阪で開かれた万博に通訳として来ていて、そのまま日本に開行したサンパウロ州立銀行に勤めたのを追いかけてやってきたのだった。ブラジルで描いていた将来もすべて捨ててクライヂアのいる日本にやってきたのだ。その後、クラウヂアと結婚。やがて一人娘花梨を設けている。

現在、プラッサ・オンゼはこのクラウヂアと、娘の花梨が非常にうまく経営している。浅田英了氏のよく使った言葉は「どんな仕事でもやり始めた以上は成立させること」だった。その意味では,我々がじつは何度も折れかかったことをこの母娘は完全に成立させて、引き継いでいる。とはいえ、この厳しい世の中だ、簡単ではないに違いない。しかし、音楽を紹介する仕事だけでなく、すべての文化に関わる仕事で、じつはこんな「愛情」のないところからは何も成立させられないのだと思う。そんな意味で、弊誌も含め、浅田英了の遺してくれたことを我々みんながしっかり考えて、日本での「文化」を守ることを本気で考えなければ,という時なのだと思う。

プラッサ・オンゼにこころから乾杯!!!
(ラティーナ11月号に掲載)本文写真はすべて浅田英了

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